雛人形をいつ出せばよいのか

雛人形をいつ出せばよいのか

雛人形を飾りだす日を尋ねられることがよくあります。

基本は、節分過ぎてからという答えで良いと思います。

後は、3月3日より数えて最低一週間は出しておきたいものです。お家の中に神様を読んでお祭りを釣るわけですから。

最近雨水に出して、啓蟄にしまうなどという事を唱えるかたもいらっしゃいますが、単に現代のカレンダーで、頃合い感があうという話で、歴史的にはおかしなことです。

明治までの、旧暦では、暦と季節が一体となってきました。立春正月で、新年となり、雨水、啓蟄、春分、清明となるわけで、春になるのは、春分彼岸が明けるのを待って飾ると25日からというところだったようです。桃の節供は、桃が咲く頃のことで、辰月に入り地上に水があふれ、蛇が脱皮をするころということで、別名で、上巳の節句という言葉があるわけです。まだ、氷がやっと溶け出すぐらいの雨水では、お雛様の話にならなかったというのが現実だったとの思います。暦が太陽暦に替わり正誤を言うのは、難しいと思いますが、伝統的な考え方ではないということだけは、申し上げておきたい。

ひな人形は、何歳まで飾るのでしょうか

ひな人形は、何歳まで飾るのでしょうか

理想を言えば、その命の誕生とともに身代わりを果たすための物として、用意して頂いたわけですから、ずっと毎年飾っていただきたいと思います。身祝い(そのお子様一人のために行うお祝)のため飾っていただけたらいいなと思います。

本来「祝いとは」不吉なものを避け 、吉事を招くことを表すことばで、年齢は、あまり関係ないと言えると思います。

ただお雛文化に予祝の考え方が加わり、幸せな結婚式の姿を表現した飾りを使っている現代、実際に幸せな結婚式ができた時点を一つの区切りと考えることも良いのではないかと考えます。

ひな人形 右大臣と左大臣

ひな人形 右大臣と左大臣

ひな祭りの歌にもあります右大臣ですが、お雛段の中の位置7段飾りの中段4段目に配置されています。年功序列が当然の時代背景老人が官位の高い席に座っているのが自然。左尊右卑が宮中の冠位順序なので、向かって右の席が位の高い席になります。また、人形界で伝わってきた装束を考えると武官の衣装である事、お顔の口開きが向かって右側、口結びが向かって左側など、いろいろな事を考え合わすと、どうやら、右大臣左大臣ではなく、仁王様などと同じように神社仏閣の入り口で、悪いものを寄せ付けないように配置された、随身門が本当であるようです。お雛さまをお守りするために随身門にあやかろうとしたというのが無理がない解釈のように思います。。

日光~鎌倉の旅♪: 隋臣(ずいじん・ずいしん)

隋臣(ずいじん・ずいしん)

隋臣(ずいじん・ずいしん)
一般には、右大臣・左大臣とも呼ぶが実際には衛仕であり、武官。

雛人形と六曜

雛人形と六曜

お雛様の配達日や、飾り始めの日を気になさるお客様は、意外に多いようです。

もちろん縁起ものだから気にする。

贈りものだから気にする。

日本人の美徳、相手の事を気遣う精神に於いて、相手が気を悪くするかもしれないから、自分もちょっと気になるから、そういう方たちは、是非気にしてあげてください。

せっかくの贈りものですから。

でも、もともと上巳の祓いは、よくないからお祓いを行ったので、大安吉日に行ったわけでは、ありませんので、ご安心を

ひな祭り

ひな祭り

ひな祭りの起源は、大昔で、源氏物語の須磨の巻などに上巳の節供についての描写があります。

そこには、等身大の藁で作った人像を船で流したお祓いの行事であることが、垣間見えます。

その後も高貴な方たちの由帷子を使ってのお祓いの話や、室町時代の撫で物使いの話など、八百万の神の国らしく、神様に、悪い事がないようのお願いするための贖物を用意する文化であったと考えられます。

同時に室町に入ると貴族の中でそれらひとがたを愛玩する文化(姫様たちのままごと)が始まりました。

このことによって、お雛さまは、段々立派なものとなり、毎年更新することが難しくなったと考えられます。

そこで、その無病息災への思いを叶えるため、屋敷に神様に来ていただこう、そのための工夫が、お家の中の聖域(結界)が赤い毛氈であり、床の間であったと考えられています。

江戸時代に入って身分制度が固まる中、大名や大商人といった人たちによって、お雛文化は、発展しました。

そういった人たちが、自分の娘や孫娘に自分より豊かに幸せになって欲しいと願う時、予祝の考え方が入ってきたように思います。

予祝とは、幸せは、急に来ないもの、お祝いを重ね待っていることでやっと来てくれるものだという考え方で、将来の幸せな結婚を祈念して、ひな飾りに赤ちゃんの身代わり(分身)であるお雛様が幸せな結婚をした状態で雛飾りにするようになったと考えられる。

だから、身分制度が固まった江戸時代では、自分より地位の高い人たちとの婚礼(究極は、将軍様か天皇陛下))となるのでしょうか、そういった三国一の花婿(立派な衣装を着せたお内裏様なる人形)を金屏風の前に(自分の娘、孫娘にお内裏様に釣合いのとれた衣装を着せたお雛様なる人形)分身と対で飾ることで将来の幸せも合わせてお願いするようになったと考えられる。

丁度皆さんが神社へ言って神頼みをする時、色々と一度にお願いする(日本人的思考)ように、せっかくお家に神様に来ていただいているのだから、色々な人形や道具に思いを託して、ひな飾りを作り、赤ちゃんの無事成長、将来の幸せなど考えられることを、お家に来ていただいた神様にお供え物をしお願いするお家の中だけの小さなお祭りであり、毎年その子のためにやってあげる身祝いとして続けていただいております。

Beginning of a Girl’s Festival, there is description about Jiyomi’s seasonal festival in Maki in Suma of the Tale of Genji in ancient times.

The thing which is an event of the purification ceremony let run by ship can have a glimpse of the person image made with life-sized straw there.

I can think it was the Bunka when shokumono of the purpose I’ll request which is so that there were also no things bad for God appropriate for a country of a god of eight million such as the fact that you’re conducting traditional ceremonies to expel evil spirits and an account of stroking thing usage in Muromachi era using people’s high way mail after that is prepared.

When I enter Muromachi at the same time, it’s in the aristocrat, that and others, the Bunka when a dummy is petted (a princess, playing house) has started.

Mr. chick can think it became difficult it was something wonderful and that it’s being renewed every year gradually by this thing.

So to grant expectation to the perfect state of health, it’s thought a sacred precinct in the house (boundary fence) was a red rug, and that the device for it which will have God come to the residence was an alcove.

While a class system hardens from the Edo Period, chick culture is developed by people such as daimyos and wealthy merchants.

When hoping that such people want their daughter and granddaughter to be more abundantly than oneself happily, I think a way of thinking of arakajimeshuku came in.

arakajimeshuku is something to which I don’t come suddenly and the way of thinking to which you come finally by piling up and waiting a celebration happily, and I can think Mr. chick who is baby’s scapegoat (alter ego) in a chick ornament prayed for future happy marriage, and started to make it a chick ornament in the state which got married happily.

So will a class system be a bridal with people more high-ranking than oneself (for an ultimate, generals or His Majesty the Emperor)) in the Edo Period which hardened, I can think such bridegroom unparalleled in the world (the doll Mr. Imperial Palace who put a wonderful costume on will be) to have come to request together with future happiness by displaying the (doll Mr. chick who put the costume the daughter and granddaughter could balance for Mr. Imperial Palace on will be in front of the gilt folding screen by branching and a pair.

When everyone says to a shrine and prays to God for help exactly, variously, together, please, (Japanese thought), like, because I have God come to the house hard, I make an offering to the God who entrusted expectation to various dolls and tools, made a chick ornament and had come baby’s safe growth and the case that future happiness is considered in a house, please, it’s small only in house, you’re deifying and you continue it as the personal celebration I’ll do for the child every year.

お雛さまは、誰が買う-2

お雛さまは、誰が買う-2

お雛さまは、誰が買うのが本当ですか?この質問最近多いように思いますので一言

結論から言えば、誰が買ってあげてもよいと思います。

まず、長年の慣習になっている、嫁方の実家について考えてみます。

日本の国は、農耕社会で、本家や分家、新家など、男子が家督を相続していく社会でした。

そこで、男方の実家は、家屋敷を準備してしまうわけですから、女方の実家は、お祝い事などの時の品物は、持っていく風習が出来上がったと考えられます。また逆に、お祝いの席などを男方で考えることで、バランスが取れた、品物の交換がされてきたように思います。昨今は、男女同権、夫婦共稼ぎ、各家族化が進み、男女とも公平に出費をする風潮が生まれてきたように思います。

品物は、どうであったか現在では、親元が、総て、セットでお買い求めになりますが、昔は、兄弟親せきなどが、分担して、一つのセットを買っていただいた時代もあったようです。つまり親元が、親王、兄弟が、官女親戚が五人囃子のようにして、生まれたお子さんの幸せをたくさん盛り込んでいただいたように聞いております。

現在で考えると、お子様の数が少ない、親戚の数も少ないとなると赤ちゃんにとってご両家とも血のつながりも、愛情も同様にお持ちのはずですから、若夫婦を通じて、気さくに話し合えれば一番いいと思います。ご両家で半分ずつ出し合って買ってあげようという結論が出れば、ご両家のご両親を含めた形でのお買い物もよいのかと思います。

東京からお買い物こられるお客様には、そのような事をお話しになっているお客様が見受けられるようになってきました。

本来赤ちゃんに愛情の深い人たちが赤ちゃんのために買って下さる品物です。それぞれの面子や思いもあるかと思いますが、できれば、穏やかで、前向きな相談ができれば一番良いように思います。

It’s true that who buys Mr. chick? I think there are a lot of these questions recently, so word

When saying from a conclusion, I think everyone may buy it for you.

First I’ll think about the wives’ parents’ home which becomes a long custom.

A Japanese country was agrarian society and a main branch, a branch family and Araya were the society by which the boy is inheriting a patrimony.

So because men’s parents’ home is the reason for which a homestead is prepared, women’s parents’ home can think a taken custom has been finished for the goods at time of the celebration. It’s to consider a congratulatory seat by men conversely also, and I think the well-balanced goods have been exchanged. Sex equality, conjugal working in double harness and each family-ization are developed in these days, and I think the trend the expenditure is made fair to which with men and women, too has been born.

A banker buys how the goods were by a set completely present, but a brother relative shares before, and there also seems to have been a time when you bought me one set. In other words, a banker is hearing a court lady relative did like subordinate dolls displayed at the Girls’ Festival, and that an Imperial prince and a brother had incorporate much happiness of your born child.

The connection which is also blood with both families for a baby when the child’s few relative is also few when he thinks present, affection, like, because you should have it, I think it’s best when it can be discussed frankly through a young couple. When the conclusion that I’ll share half with both families and buy it for you goes out, I think I’d also like shopping by the shape including the parents of both families.

The customer who can come shopping from Tokyo was becoming able to happen to see the customer speaking about such thing.

The goods affectionate people buy for a baby for a baby primarily. I think there are also the respective face and expectation, but if possible, it’s gentle and when you can consult positively, I think it’s best.

ひな祭りと雨水について

ひな祭りと雨水について

何代も以前の祖先たちが、生活の基準として千年以上に亙、従ってきたもともとの原理に照らし、私たちに伝えられた数々の祭りや習わしを、読み取らねばならない。

初節句を迎えた女児のために飾るお雛さまは、毎年迎える雛節供に向けて少なくとも明治の改暦以前には、二月の春分彼岸会(中日をはさんでの三日間)が済むのを待って、雛建が(三月三日の節供に向けて、雛飾りをする)があった。

ごく最近、二十四節気で一月の節中雨水が雛建の日で、二月節気啓蟄の日お雛飾りをしまうのが昔から伝わってきた雛人形解説を聞く、しかしそのような説は、伝わっていないのが事実といえる。

明治の改暦後の暦では、正月の節気雨水が二月の月中頃にあたり、旧暦二月の啓蟄は、新暦では、三月の六日頃に当たるので、現在の三月節供に準じ当てはまる故と考えられるが昔からの言い伝えにあたらぬ。

大戦後かなりの期間、各年のお節句には、新暦の節供、旧暦の節供の地域が存在した(現在も旧暦や、月遅れの地域がある)。業界でも、新旧地域向けの対応が続いたのは、記憶に新しい事である。

ただ桃の節供の季節感は、昔の呼び方で三月は辰の月といい文字通り自然界に水があふれ草木が勢いよく大地を覆う。

上巳の節供の元々といわれる、巳(蛇)が冬眠から覚め命がけの脱皮をすることで成長をする姿の神秘を昔の人達は、吾身のけがれを祓うみそぎと重ね、生命を生む力を授かってきた女児の節供に結び付け、大切に女児の祭りとして祝ったに違いないと考える。

世代三代の意味 -七段飾りを読み解く13-

世代三代の意味 -七段飾りを読み解く13-

伊勢の遷宮の際に、新しい橋がかかると渡初式(わたりはじめしき)が行われます。

この渡り初めには全国から3世代そろった元気な夫婦が呼ばれます。老夫婦、子供夫婦、孫夫婦が新しい橋を東西に渡り、長寿の橋を祈願するのです。

伊勢神宮

世代三代の三人仕丁は、一人前になるまでの人間のあり方を伝え、長寿への願いをこめたものといえます。

彼らも三人揃ってこそ意味をなす、ひな壇の大切な組雛です。

世代三代と三人仕丁 -七段飾りを読み解く12-

世代三代と三人仕丁 -七段飾りを読み解く12-

ひな壇の五段目に並ぶのは、3人の仕丁です。仕丁とは貴族などの家で炊事や掃除などの雑役のことです。

向かって左から、口開きの怒り(中年)、泣きべそ(若い男)、箒を持った口開きの笑い(年寄り)と並びます。

 

この世代3代というのは面白いもので、人間をよく表しています。

例えば大工仕事でいえば、年寄りはお金も足りて仕事も足りて、物事を聴く力があり、教える力がある棟梁格なのでにこにこ笑っている。真ん中は、体は成人しても仕事はまだ半人前の泣きべその若者。そして怒っているのは仕事もできて一生懸命シャカリキになって働いている中堅。

三人仕丁はこの等に、時間の流れをもっている組雛なのです。

 

並び方は、中左右と言って、真ん中に一番偉い人、左に次の位の人、右に一番下の人という神道の並び方をしています。やはり向かって見ると左右は逆なので、若者、年寄り、中年の順に偉いことになります。

若輩者が一番偉いというのは不思議かもしれませんが、若いというのは未来に対する力を一番もっている存在ですので、若い方が尊いとしたんですね。

守護像としての随身(ずいじん) -七段飾りを読み解く11-

守護像としての随身(ずいじん) -七段飾りを読み解く11-

ひな壇の4段目、左右の端には随身が控えています。

随身というのは、高官の警護などをした武人のことです。左上位なので左にいる方が位が高く、向かって右の年配の姿が左大臣で、向かって左の若い姿が右大臣です。

向かってみると左右が逆なのでわかりづらいかもしれません。

 

武人である彼らは、狛犬や神社の門などにいる阿吽(あうん)像、随身像と同じような役割を持っています。

これらの一対の像をよく見てみると、一方が口開き、一方が口結びをしています。また、阿吽像は、口を開いている方の手は開き、結んでいる方の手は同じくぎゅっと握られています。

彼らは背後にいるもの(ひな壇であればおひな様とおだいり様)を守る守護像なので、陰陽の理を元にした結界を張っているのです。

 

以前にもお話ししましたが、ひな壇は向かって右が陽、左が隠として作られています。

随身もこれに従い、向かって右の左大臣は陽なので口開き、右大臣は隠なので口結びになっています。

今の五人囃子が同じ髪型ばかりの理由 -七段飾りを読み解く10-

今の五人囃子が同じ髪型ばかりの理由 -七段飾りを読み解く10-

組雛ごとに売られる方法は形を変え、やがて店頭では十五人揃の雛段飾りと、飾り段用九品の雛具でセット販売される規格が広がり、雛人形の業界は隆盛期を迎えました。

しかし、売れすぎると今度は従来の生産では間に合わなくなったのです。他聞にもれず、五人囃子の雛頭はみんな、大鼓の型が使われるようになりました。つまり、五人一律の簡略形がとられるようになったのです。

十五人それぞれの頭を用いた本来の伝統は、少し消え失せるかのような流れで現在に至っています。

 

私どもの作る雛人形は、今も五人囃子の顔は一つずつ変えています。なぜなら、五人の髪型には子供の成長への願いが込められているからです。

 

五人囃子がどうして童子の姿をしているのかについては、また別の回でお話ししたいと思います。

五人囃子の髪型 -七段飾りを読み解く9-

五人囃子の髪型 -七段飾りを読み解く9-

少し専門的ですが、五人囃子の童頭の形を向かって左から紹介します。

 

・大きく口を結んだ太鼓:どんずりに結び上げの鬢(びん)、髪がワンカ、やっこ鬢はり

・口開きの形の大鼓(おおかわ):どんずりに前下げの髪、長い下げ結びの鬢

・ちょぼ口の小鼓、どんずりに長く下げ結びの鬢

・吹きよせ唇の笛:カムロの髪型

・口開きの謡

(紹介した結髪・面相については、頭師としても長老である鈴木柳蔵、石川潤平氏にその確認を仰ぎました)

 

こうした一連の五人囃子の規格は広く使用され、昭和30年頃までその形式は続きました。

その姿は当時はごく当然のものとして扱われていました。

 

またその当時までは、親王、官女、五人囃子、随身、仕丁はそれぞれ組雛として桐箱や前硝子の飾り箱などに入れて販売されていました。

これは御殿飾りや雛段飾りが十五人揃えになるのを前提にして、好きなようにひな壇の十五人を集められるというもので、自由で縦横な販売がされていました。

ですが現在では、五人囃子の髪型はみな同じというものが広く販売されています。

五人囃子だけが子どもの顔 -七段飾りを読み解く8-

五人囃子だけが子どもの顔 -七段飾りを読み解く8-

さて、どうして五人囃子は童顔なのでしょうか。

親王対雛(おひな様とおだいり様)を主役とした七段飾りの雛十五人揃。その中でも五人囃子の組雛(幾つかで1まとまりの雛)は、ひな祭りを音楽で囃す、欠かせない存在です。

赤ちゃんの形代(かたしろ)でもあるおひな様・おだいり様のために、健康で良い一生を送れますようにと、穢れない幼な子の姿で五人囃子にうたい上げてほしい。そんな意味をこめたのでしょうか。

 

ひな壇には男女対雛を最上段に、三人官女がすぐ下の段、三段目に五人囃子、四段目は随身、五段目に供仕丁で十五人の雛が陳列されます。

その中で五人囃子の組雛だけは、唐子(からこ:中国風の服装や髪型をした子ども)の童顔が用いられ、他の雛たちには成人した顔立ちと髪型の頭(しょう顏)が用いられてきたのです。

幼児の無心の尊さと五人囃子 -七段飾りを読み解く7-

幼児の無心の尊さと五人囃子 -七段飾りを読み解く7-

幼い子のあどけない、時間も忘れて遊ぶしぐさ。声をかけても振り向かない、汚れても気にしない無心さ。

そんな三昧の境地とも呼ぶべき童心の純粋さは、誰も憎めず、むしろ尊いものだと思います。

雛人形の五人囃子は、こういった無垢な子どもの顔で作られることになっています。

 

昔から中国では、十才を幼、二十才を弱、三十才を壮、四十才を強、五十才を艾(がい)、それ以上は十才ごとに耆(き)、耄(もう)、たい背(たいはい:「たい」の字は魚へんに台と書く)というふうに呼んでいます。

また七才は悼(とう)、五才は童(どう)、三才は孩(がい)ということで、各年代に呼称をつけることで、その歳の人のあってほしい姿を表現しました。

悼と耄、つまり幼児と老人は罪があっても刑を科されず、社会のきまりの外において見守ったといいます。

五人囃子の子どもの姿には、そんな自由さも込められているのでしょう。

三々九度の盃で魂がつながる -七段飾りを読み解く6-

三々九度の盃で魂がつながる -七段飾りを読み解く6-

今でも神道式の婚礼の儀では三々九度の盃を飲みますが、夫婦と両家の親族が同じ盃で酒を交わすことにより、異なる親族が魂がつながりを持つとされています。

宴席を同じ盃が一巡すると一献(いっこん)となり、廻る盃で一回(ひと口)飲むことを一度といいます。一献の盃を三度に飲んで三献を重ねるので、三々九度の盃となるのです。

古代中国では、祝宴の席に人を迎える最高の礼が、九献とされていました。この文化が日本に渡り、いつのころから九献が三々九度の盃に転じたのかどうかは定かではありません。

日本創生神話と酒器の種類 -七段飾りを読み解く5-

日本創生神話と酒器の種類 -七段飾りを読み解く5-

日本創生神話にある男女の神にまつわるお話しで、どのように二人が出会い、命が生まれたのかというお話しをご存知でしょうか。

天の御柱の周りを男神が左廻り、女神が右廻りをして出会い、美斗(みと)のまぐあいがあり日本が誕生したという日本創世の神話。これに倣い、ひな壇では左の瓶子(へいし:お酒を入れる壺型の焼き物)に雄蝶、右の瓶子に雌蝶の蝶花形(ちょうはながた)を飾ります。

 

この男女の二神に供えられた神酒は、まず雌蝶の瓶子から提子(ひさげ:注ぎ口のある金属製の器)に移し、次に雄蝶の瓶子の神酒をその上に注ぎます。さらに提子の神酒は、長柄(ながえ)の銚子(ちょうし:酒を移し入れる時に使う器)に移され、盃に注ぎます。神社で行われる神道式の結婚式では、今も見かけることの多い手順だと思います。

酒器

提子(ひさげ)には雌蝶、銚子(ちょうし)には雄喋の蝶花形が飾り付けられますが、この二つと左右の瓶子(へいし)一対を合わせて四丁(しちょう)になるのを忌み嫌い、菱飾りがつく形式もあります。今もそうですが、昔も四の字は「死」を連想させるため避けられたのです。

 

このように男女の二神にまつわる神酒の器は、二神が出会うことで命が生まれたという神話にあやかったものなのです。つまり婚礼の儀は、次の世代の誕生を祈ることでもあるのです。

三人官女たちは婚礼の儀の進行役 -七段飾りを読み解く4-

三人官女たちは婚礼の儀の進行役 -七段飾りを読み解く4-

本来、両側の官女は神に仕える巫女の姿をしています。未婚の女性のため眉があり、左の官女は口を開き、右の官女は口を結んでいます。

三人官女

中央の官女は待上臈(まちじょうろう)と呼ばれる年功を積んだ女性です。彼女は袿(うちき)を着て眉がなく、口を開けて祈っています。この女性は婚礼の司会をして祝詞(のりと)の口上を述べ、式三献(しきさんこん)の儀を進行させます。

では、三人官女たちが執り行う古来の結婚式の様子を、ひな壇を通してもう少し詳しく見ていきましょう。

胴がら師が決める顔の並び -雛人形が今の形になるまでの歴史4-

胴がら師が決める顔の並び -雛人形が今の形になるまでの歴史4-

さて、人形は胴だけ作って必ず後から首をさしますと話しました。私は胴がら師ですので、襟の部分は顔をさす串の状態を想定して作っていきます。

この胴がらに顔をさす時、どの胴にどの顔をさすべきかというのは、とても重要な問題です。なぜなら「この顔をこの胴がらにさしなさい」という文献は残っていないので、そこは胴がら師に一任されるのです。

職人

 

そこで私は、どういうお顔の並びが一番雛人形の本質に沿っているのか、様々な資料を調べて決めました。

江戸時代に決まった人形の大きさ -雛人形が今の形になるまでの歴史3-

江戸時代に決まった人形の大きさ -雛人形が今の形になるまでの歴史3-

ここで、ひな壇の形の歴史についても見ていきましょう。以前、七段飾りは江戸時代に完成されたという話をしました。

江戸時代、武家の間では今よりもずっと大きいお雛様が贈られていました。最初は等身大くらいの大きな人形が臣下から奉納され、ひな祭りのお祝いをしていたのです。それが段々と広まってくると、競うようにお道具も金ぴかになり、ますます派手になっていきました。

そこに、将軍徳川吉宗が奢侈禁止令(しゃしきんしれい)を出し、「贅沢をしてはいけない」と命じました。その後人形は急に小さくなっていき、やがてその大きさは八寸という高さで止められました。

 

江戸時代

 

ところで私どもの業界では、顔を抜いた状態で八寸を図ります。雛人形は胴がらと首を別々に作って、最後に首をさすのですが、その首をさす前の状態で、サイズを測ります。

ところが江戸の役人はそんなことを知らずに頭から下まで測ったため、「八寸以上あるじゃないか」と言ってきたそうです。作り手の常識を知らなかったんですね。

今でも八寸といえば、顔を抜いた状態の肩から下までで八寸と言います。

その後、大きさをもとにしたお人形の呼び方がいろいろ生まれました。柳三寸とかこげし、けし。10番、9番と番も入ってきて、5番となると結構大きいです。

巳(蛇)の脱皮と、毎年の成長を重ねて -雛人形が今の形になるまでの歴史・・・

巳(蛇)の脱皮と、毎年の成長を重ねて -雛人形が今の形になるまでの歴史2-

ご存知の方が多いと思いますが、巳は蛇の意味をもちます。冬眠から覚め、自然界に水が溢れてくる季節、蛇は自身の身体を脱皮して成長します。

ヘビ

 

祖先たちはその蛇の神秘的な姿を身殺ぎ(みそぎ)として感じとったのでしょう。災厄や穢れを我が身からそぎ落として、無病息災や清浄な心身を祈願する象徴として、巳を神聖視してきました。

ひな祭りの祝いが年中行事として繰り返し行われるのも、蛇の毎年の脱皮を模しているといえるでしょう。

お雛様とお内裏様の左右のお話

お雛様とお内裏様の左右のお話

お雛様・お内裏様を左右どちらに置くかというのは、様々な考え方があります。

 

例えば、その時代の天皇さまと皇后さまの座り方に倣った並べ方です。

昔は一般的に、向かって右が高貴な方が座るという考え方をしていましたので、右がお内裏さま、左がお雛様とされていました。

ですが大正から昭和にかけて、西洋に合わせて並びが逆になりました。式典の際に向かって左に天皇さま、右に皇后さまが並ばれるようになり、雛人形の飾り方もそれに習って左にお内裏様、右にお雛様を飾ることになりました。

 

 

ここで吉貞人形では、明治以前と同じく「向かって右にお内裏様、左にお雛様」としています。

というのも、もともとの右に男、左に女という並びにはきちんと意味があって決められていたものだからです。

 

雛人形というのは、生まれたばかりの女の子の無病息災を願い守ってくれる結界としての役割を持っています。そのため、七段飾りの形ができあがるまでには、赤ちゃんを守るために中国の陰陽思想をはじめとした様々な試行錯誤がなされたと考えられます。

 

古代の中国からの陰陽思想では、世の中のあらゆる物事や宇宙の森羅万象を、対となる陰・陽の2つの要素で分類しました。

イメージを持ってもらいやすいように、下記の表をご覧ください。

陽:男、太陽、昼、光、夏、春、天、火、明、上昇、能動的

陰:女、月 、夜、陰、冬、秋、地、水、暗、下降、受動的

陰と陽というのは互いに補い合う関係を表します。どちらか一方が欠ければどちらも存在できません。

例えばこれは、生命としての男女の関係にも例えられます。古来より男性は陽、女性は陰としてのイメージが持たれてきました。そのためお内裏様は陽、お雛様は陰となります。

 

さらに古来、「君子南面す」といって、帝王は南を向いて座るものとされてきました。するとお内裏様から見て左手が東、右手が西、背後が北となります。

太陽が昇る東は陽、沈む西は陰と考えられますので、向かってお内裏様は右、お雛様は左に飾るのが自然な形となるのです。

(図も出します)

 

これらの工夫がお雛様の七段飾りに現れていますので、詳しくはこちらをご覧ください。(現代の名工ページへのリンクを貼る)

お雛様の由来

お雛様の由来

お雛様の歴史はどのように始まったのでしょうか。その答えは一つではありません。
長い時間をかけて、日本のいろいろな文化や季節の儀式などが合わさり変化しながら、
今のお雛様の慣習が作られてきました。

3月3日のひな祭りは「上巳(じょうみ)の節句」とも言われ、平安時代に始まりました。
貴族たちによって3月の最初の巳の日、つまり上巳の日に、女の子のための無病息災を祈願するお祓いがおこなわれていました。紙人形(ひとかた)や土、草、わらなどで作った人形にお供え物を添え、厄災を引き受けてくれるよう願いを込めて、川や海に流しました。この文化が次第に庶民にも浸透して、広く行われるようになったのです。農民の間では、農作物が無事育つように、人形(ひとかた)を撫でて穢れをうつし、水に流していました。
この上巳の節句は中国から伝わったもので、「桃花節(とうかのせつ)」とも言われました。ここから桃の節句とも呼ばれています。
もう一つのお雛様の由来に、「ひいな遊び」があります。紙やわらなどで作った男女の人形で、宮中の貴族の子どもたちがままごと遊びをしていたようです。平安時代に書かれていた源氏物語にも記述が出てきます。
この上巳の節句とひいな遊びが次第に合わさるようになり、今の形に近づいて行きました。

時代が進み、宮中で行われていた雛遊びは、京都から江戸へと伝わります。江戸の活気ある武家・町人文化の風俗の中で、人形作りは盛んになり雛市も開かれていました。
この江戸の豊かで比較的平和な時代に、立ち雛以外に座り雛が生まれるなど形が変化したり、色鮮やかな加工方法や技巧が考案されたりなど、お雛様の文化は職人たちの手によって華やかに変化していきました。

ひな祭りの原点「上巳の節句」 -雛人形が今の形になるまでの歴史1-

ひな祭りの原点「上巳の節句」 -雛人形が今の形になるまでの歴史1-

ひな祭りの歴史をたどると、中国から流入した上巳の節句(じょうみのせっく)に行き着きます。

少し難しい話になりますが、我が国では古くから巳の日の祓(みのひのはらえ)の思想を原点にして、ひな祭りの祝いが行われてきました。

昔は年以外にも日付に十二支を当てはめて考えていたので、巳の日が12日に一回巡ってきました。

干支

 

「上巳の節句」は月の初めの巳の日に行われる、心身の穢れを祓うための行事でした。

この節句がひな祭りの原点にあると言われており、もともとは女児だけでなく、男児の節句でもあったと思われます。