【現代の名工】が継承する節句の話

江戸時代に決まった人形の大きさ -雛人形が今の形になるまでの歴史3-

江戸時代に決まった人形の大きさ -雛人形が今の形になるまでの歴史3-

江戸時代

ここで、ひな壇の形の歴史についても見ていきましょう。以前、七段飾りは江戸時代に完成されたという話をしました。

江戸時代、武家の間では今よりもずっと大きいお雛様が贈られていました。最初は等身大くらいの大きな人形が臣下から奉納され、ひな祭りのお祝いをしていたのです。それが段々と広まってくると、競うようにお道具も金ぴかになり、ますます派手になっていきました。

そこに、将軍徳川吉宗が奢侈禁止令(しゃしきんしれい)を出し、「贅沢をしてはいけない」と命じました。その後人形は急に小さくなっていき、やがてその大きさは八寸という高さで止められました。

 

江戸時代

 

ところで私どもの業界では、顔を抜いた状態で八寸を図ります。雛人形は胴がらと首を別々に作って、最後に首をさすのですが、その首をさす前の状態で、サイズを測ります。

ところが江戸の役人はそんなことを知らずに頭から下まで測ったため、「八寸以上あるじゃないか」と言ってきたそうです。作り手の常識を知らなかったんですね。

今でも八寸といえば、顔を抜いた状態の肩から下までで八寸と言います。

その後、大きさをもとにしたお人形の呼び方がいろいろ生まれました。柳三寸とかこげし、けし。10番、9番と番も入ってきて、5番となると結構大きいです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です