ひな人形 右大臣と左大臣

ひな人形 右大臣と左大臣

ひな祭りの歌にもあります右大臣ですが、お雛段の中の位置7段飾りの中段4段目に配置されています。年功序列が当然の時代背景老人が官位の高い席に座っているのが自然。左尊右卑が宮中の冠位順序なので、向かって右の席が位の高い席になります。また、人形界で伝わってきた装束を考えると武官の衣装である事、お顔の口開きが向かって右側、口結びが向かって左側など、いろいろな事を考え合わすと、どうやら、右大臣左大臣ではなく、仁王様などと同じように神社仏閣の入り口で、悪いものを寄せ付けないように配置された、随身門が本当であるようです。お雛さまをお守りするために随身門にあやかろうとしたというのが無理がない解釈のように思います。。

日光~鎌倉の旅♪: 隋臣(ずいじん・ずいしん)

隋臣(ずいじん・ずいしん)

隋臣(ずいじん・ずいしん)
一般には、右大臣・左大臣とも呼ぶが実際には衛仕であり、武官。

雛人形と六曜

雛人形と六曜

お雛様の配達日や、飾り始めの日を気になさるお客様は、意外に多いようです。

もちろん縁起ものだから気にする。

贈りものだから気にする。

日本人の美徳、相手の事を気遣う精神に於いて、相手が気を悪くするかもしれないから、自分もちょっと気になるから、そういう方たちは、是非気にしてあげてください。

せっかくの贈りものですから。

でも、もともと上巳の祓いは、よくないからお祓いを行ったので、大安吉日に行ったわけでは、ありませんので、ご安心を

ひな祭り

ひな祭り

ひな祭りの起源は、大昔で、源氏物語の須磨の巻などに上巳の節供についての描写があります。

そこには、等身大の藁で作った人像を船で流したお祓いの行事であることが、垣間見えます。

その後も高貴な方たちの由帷子を使ってのお祓いの話や、室町時代の撫で物使いの話など、八百万の神の国らしく、神様に、悪い事がないようのお願いするための贖物を用意する文化であったと考えられます。

同時に室町に入ると貴族の中でそれらひとがたを愛玩する文化(姫様たちのままごと)が始まりました。

このことによって、お雛さまは、段々立派なものとなり、毎年更新することが難しくなったと考えられます。

そこで、その無病息災への思いを叶えるため、屋敷に神様に来ていただこう、そのための工夫が、お家の中の聖域(結界)が赤い毛氈であり、床の間であったと考えられています。

江戸時代に入って身分制度が固まる中、大名や大商人といった人たちによって、お雛文化は、発展しました。

そういった人たちが、自分の娘や孫娘に自分より豊かに幸せになって欲しいと願う時、予祝の考え方が入ってきたように思います。

予祝とは、幸せは、急に来ないもの、お祝いを重ね待っていることでやっと来てくれるものだという考え方で、将来の幸せな結婚を祈念して、ひな飾りに赤ちゃんの身代わり(分身)であるお雛様が幸せな結婚をした状態で雛飾りにするようになったと考えられる。

だから、身分制度が固まった江戸時代では、自分より地位の高い人たちとの婚礼(究極は、将軍様か天皇陛下))となるのでしょうか、そういった三国一の花婿(立派な衣装を着せたお内裏様なる人形)を金屏風の前に(自分の娘、孫娘にお内裏様に釣合いのとれた衣装を着せたお雛様なる人形)分身と対で飾ることで将来の幸せも合わせてお願いするようになったと考えられる。

丁度皆さんが神社へ言って神頼みをする時、色々と一度にお願いする(日本人的思考)ように、せっかくお家に神様に来ていただいているのだから、色々な人形や道具に思いを託して、ひな飾りを作り、赤ちゃんの無事成長、将来の幸せなど考えられることを、お家に来ていただいた神様にお供え物をしお願いするお家の中だけの小さなお祭りであり、毎年その子のためにやってあげる身祝いとして続けていただいております。

Beginning of a Girl’s Festival, there is description about Jiyomi’s seasonal festival in Maki in Suma of the Tale of Genji in ancient times.

The thing which is an event of the purification ceremony let run by ship can have a glimpse of the person image made with life-sized straw there.

I can think it was the Bunka when shokumono of the purpose I’ll request which is so that there were also no things bad for God appropriate for a country of a god of eight million such as the fact that you’re conducting traditional ceremonies to expel evil spirits and an account of stroking thing usage in Muromachi era using people’s high way mail after that is prepared.

When I enter Muromachi at the same time, it’s in the aristocrat, that and others, the Bunka when a dummy is petted (a princess, playing house) has started.

Mr. chick can think it became difficult it was something wonderful and that it’s being renewed every year gradually by this thing.

So to grant expectation to the perfect state of health, it’s thought a sacred precinct in the house (boundary fence) was a red rug, and that the device for it which will have God come to the residence was an alcove.

While a class system hardens from the Edo Period, chick culture is developed by people such as daimyos and wealthy merchants.

When hoping that such people want their daughter and granddaughter to be more abundantly than oneself happily, I think a way of thinking of arakajimeshuku came in.

arakajimeshuku is something to which I don’t come suddenly and the way of thinking to which you come finally by piling up and waiting a celebration happily, and I can think Mr. chick who is baby’s scapegoat (alter ego) in a chick ornament prayed for future happy marriage, and started to make it a chick ornament in the state which got married happily.

So will a class system be a bridal with people more high-ranking than oneself (for an ultimate, generals or His Majesty the Emperor)) in the Edo Period which hardened, I can think such bridegroom unparalleled in the world (the doll Mr. Imperial Palace who put a wonderful costume on will be) to have come to request together with future happiness by displaying the (doll Mr. chick who put the costume the daughter and granddaughter could balance for Mr. Imperial Palace on will be in front of the gilt folding screen by branching and a pair.

When everyone says to a shrine and prays to God for help exactly, variously, together, please, (Japanese thought), like, because I have God come to the house hard, I make an offering to the God who entrusted expectation to various dolls and tools, made a chick ornament and had come baby’s safe growth and the case that future happiness is considered in a house, please, it’s small only in house, you’re deifying and you continue it as the personal celebration I’ll do for the child every year.

お雛さまは、誰が買う-2

お雛さまは、誰が買う-2

お雛さまは、誰が買うのが本当ですか?この質問最近多いように思いますので一言

結論から言えば、誰が買ってあげてもよいと思います。

まず、長年の慣習になっている、嫁方の実家について考えてみます。

日本の国は、農耕社会で、本家や分家、新家など、男子が家督を相続していく社会でした。

そこで、男方の実家は、家屋敷を準備してしまうわけですから、女方の実家は、お祝い事などの時の品物は、持っていく風習が出来上がったと考えられます。また逆に、お祝いの席などを男方で考えることで、バランスが取れた、品物の交換がされてきたように思います。昨今は、男女同権、夫婦共稼ぎ、各家族化が進み、男女とも公平に出費をする風潮が生まれてきたように思います。

品物は、どうであったか現在では、親元が、総て、セットでお買い求めになりますが、昔は、兄弟親せきなどが、分担して、一つのセットを買っていただいた時代もあったようです。つまり親元が、親王、兄弟が、官女親戚が五人囃子のようにして、生まれたお子さんの幸せをたくさん盛り込んでいただいたように聞いております。

現在で考えると、お子様の数が少ない、親戚の数も少ないとなると赤ちゃんにとってご両家とも血のつながりも、愛情も同様にお持ちのはずですから、若夫婦を通じて、気さくに話し合えれば一番いいと思います。ご両家で半分ずつ出し合って買ってあげようという結論が出れば、ご両家のご両親を含めた形でのお買い物もよいのかと思います。

東京からお買い物こられるお客様には、そのような事をお話しになっているお客様が見受けられるようになってきました。

本来赤ちゃんに愛情の深い人たちが赤ちゃんのために買って下さる品物です。それぞれの面子や思いもあるかと思いますが、できれば、穏やかで、前向きな相談ができれば一番良いように思います。

It’s true that who buys Mr. chick? I think there are a lot of these questions recently, so word

When saying from a conclusion, I think everyone may buy it for you.

First I’ll think about the wives’ parents’ home which becomes a long custom.

A Japanese country was agrarian society and a main branch, a branch family and Araya were the society by which the boy is inheriting a patrimony.

So because men’s parents’ home is the reason for which a homestead is prepared, women’s parents’ home can think a taken custom has been finished for the goods at time of the celebration. It’s to consider a congratulatory seat by men conversely also, and I think the well-balanced goods have been exchanged. Sex equality, conjugal working in double harness and each family-ization are developed in these days, and I think the trend the expenditure is made fair to which with men and women, too has been born.

A banker buys how the goods were by a set completely present, but a brother relative shares before, and there also seems to have been a time when you bought me one set. In other words, a banker is hearing a court lady relative did like subordinate dolls displayed at the Girls’ Festival, and that an Imperial prince and a brother had incorporate much happiness of your born child.

The connection which is also blood with both families for a baby when the child’s few relative is also few when he thinks present, affection, like, because you should have it, I think it’s best when it can be discussed frankly through a young couple. When the conclusion that I’ll share half with both families and buy it for you goes out, I think I’d also like shopping by the shape including the parents of both families.

The customer who can come shopping from Tokyo was becoming able to happen to see the customer speaking about such thing.

The goods affectionate people buy for a baby for a baby primarily. I think there are also the respective face and expectation, but if possible, it’s gentle and when you can consult positively, I think it’s best.

雛人形 なぜ15人飾りか vol4

雛人形 なぜ15人飾りか vol4

五が十五を生む

 森羅万象、あらゆるものは生まれると成長を重ね発達をし、やがて旺んに活動し、最後は消滅し死に至る。これは動かすことのできぬ哲理で、生・旺・墓の語であらわされる。仏教の世界でいう三界の法も、親があり自分があり未来は子であるということも、三才とよばれる。過去・現在・未来という永遠の流れも生・旺・墓の繰り返しといえる。台風が発生し、次第に発達しながら大暴れをするが、やがてどこかで温帯低気圧に変化し消滅する。毎日の生活には夜明けが、そして日の出があり、日中があり、夕暮れ、日没があって、朝昼晩、つまり生・旺・墓となる。

 九星にみる九気の変化活動の流れの中で、本位図にあたるのが魔方陣であり、洛書と呼ばれるが、それは各星(気)のもつ本来の方位であり、各方位にはそれぞれ象意があることは前にも述べた。五黄はその中で中央太極に位置して、生・旺・墓をそして変化活動の栄枯盛衰をつかさどる帝王の星とされる。前号の九星の巡行循環の中で、本位図の位置を五黄土星が出て各方位に回座すると、この星の廻った方位が世にいう五黄殺の方位でその方位と中央を経て対する方位が暗剣殺の方位となる。本来土気のもつ生物を育む性質と共にあらゆる生命体を腐敗させてしまう力、つまり生殺与奪の力を恐れて大兇方位とされ、人々に忌避されている。このことは方ふさがり、方たがえなどの辞で源氏物語や他の古典に見られる。飛鳥時代に大陸文化が渡来して以来、千年以上にわたって我国の為政の中心はもちろん、兵術にも駆使されてきたのは、歴史の示すところである。本位図つまり魔方陣は、四方八方に大兇方位のない安定の時であり、魔方陣に生まれる十五の数の神秘をひな祭の呪術として用いたのであろう。

 十五人の考えが誕生した本位図の中で、四は巽そんの卦とされる。これには、整うの意味がある。生命の誕生は大極が生じたとみなされる。今年は八白が中央に回座する年だから、八白土星を大極とする人は、本位図を二廻り目の中央に入る前の年本位図四に八白が位置して整うのである。つまり生まれて十八年目に肉体も精神も旺んになり、大人の仲間入りをする。″十八才未満″にはこうした意味もあろうか。

 何れにせよ男女とも九星図の中央の時、この世に生を受け、二回目の中央に来る時成人し活動期に入り、生・旺の旺の部が始まる。特に女性には生命を生み出す力がある。子孫を絶やさぬという自然界の摂理を大切にする心がはたらいて女児の節供は良縁を得る。やがては母体になるための無事成長の願いが特に強いといえる気がする。陰暦で四月は巳の月である。巳の月をはさんで辰の月に上巳の節供があり、午の月に端午の節供があるが、巳は自然界では蛇であり、蛇が長い冬眠からさめ、脱皮をして成長する神秘に信仰が生まれ、五節供の儀礼と習合し、我国固有の節供文化に発展してきたと思える。毎年の節供には蛇の脱皮の擬(もど)きの意味があり、禊は水注ぎで身殺ぎ(脱皮)の意味があると思える。

 十干十二支九星などが盛んに用いられた時代を経てひなまつりは発展してきた。これをふまえず節供の意義をただすことはできまい。

「にんぎょう日本」1992年5月号掲載

雛人形 なぜ15人飾りか vol3

雛人形 なぜ15人飾りか vol3

1992-04zu
九星巡環

 魔方陣は古代中国の天文観察の中で生まれたといえるが、自然界に陰と陽の二元の気が充満して森羅万象をくり返し、止まないという考え方がその根幹をなしている。南北の線によって空間を三分し、東西の線によってさらに空間を二分して四分し、その四分された空間をさらに三分し、その四正四隅を入方位とし、中央を加えて九方とする。中央には大極天源の考え方があり、陰と陽の二元が相対して存在する考え方があって八方角に自然界の現象をあてはめて八卦が生まれた。相撲の行司が「はっけよい」と、声をかけるのはそのことからきているそうだ。状態は十分だ、頑張れと力士に休みない格闘を促す掛け声と考えるが、力士が力強く方円の上俵を踏みならすことで、神々に自然の季節の循環が順当にと祈願を促す呪いとしての意味もあるのかもしれない。

 八方位に自然界の見たままの現象をあてはめて考えた図に河図(かと)と呼ばれるものが洛書の以前に考えられており、これを先天方位という。また、九方に一瞬の間断ない自然界の変化活動のきまりとして現象をあてはめたのが洛書、つまり魔方陣でありこれが後天方位とされる。後天方位は人がこの世に生を受けてから死ぬまで自然が作用するものとされ、先天方位は人が母胎内にて受ける作用とされている。

 魔方陣は九つの数字を九星と呼んで人の星として考えられ、天象の活動作用を表すのはもちろんだが、人に作用し続ける変化活動の図とされている。九星の巡行は一界の循環が九年であり、九ヶ月であり九日間であり、さらに時刻もそうである。九星にはそれぞれ一白水星、二黒土星、三碧木星、四緑木星、五黄土星、六白金星、七赤金星、八白土星、九紫火星という名称がある。魔方陣に図示された位置が本位であり、その図盤上の各方位の方象のもつ意味が九星のおのおのの象意となり、図示された各方位を循環する。つまり、一白は北、二黒は南西、三碧は東、四緑は南東の象意をもってのようにである。

 中央は五黄であり、太極とされ、各星が中央に回座した年が人の誕生の年にあたる。平成四年は八白が中央に巡るので、節分以降に生まれた赤ちゃんは、八白土星を本命星にもつ人として一生を過ごすことになる。ここで注意を要するのは、五黄土星が中央太極を出て八方位に回座する八年そして八ヶ月の間、強い兇方作用が生ずる。つまり五黄が中央に回座するとき人々の周囲に大兇方作用が及ばぬことになる。その図が本位図であり魔方陣となる。人々は魔方陣に生じる十五という数字に安泰を求め、自然界の作用の魔詞不思議をひな段の信仰の呪術にかえたと思えるのである。

「にんぎょう日本」1992年4月号掲載

雛人形 なぜ15人飾りか vol2

雛人形 なぜ15人飾りか vol2

1992-03zu
ひな15人は自然界の営みを表現

 科学万能の現代生活にあっても、多くの人々が年末年始の時期には、日記と共に運命暦を買い求める。運命暦は、あるいは毎年の定着したベストセラーといえるのかもしれない。そしてそれは、人々の誰もが心のどこかで明日への不安と闘いながら毎日の生活を続けている証といえるだろう。気やすめといいながらも、何かを心のより処にしたいのが人情というもので、そこには昔も今もない。深い深い心の底では、自然界の大きな営みの力を知らず知らずのうちに怖れているのかも知れない。

 魔方陣は、その大自然の目に見えぬ営み、運行作用を数字におきかえて具体的にし、その原理を示すもので、その数理の法則は四千年以上の時を経て科学万能の時代の今日に至っても万古不易、宇宙の鉄則とされている。

 魔方陣を構成する一から九までの数字はそれぞれの性質をもつ生命エネルギーと解釈できるが、一つ一つが独立して存在するのではなく、便宜的に九つの種類に分けただけのことで、一体となって、限りなく、循環作用し、自然界を支配することになる。私達のすぐ身の周りが電波や磁界作用、肉眼で見えぬ限りない色々な素粒子のとびかう空間であることを感じつつ、魔方陣の数字の各々の循環の順序と原子核を中心に廻転する電子の軌跡とが同じ様子だと聞かされると驚く。そして目には見えぬその作用を何となく理解することができるだろう。

 洛書は魔方陣が揚子江の治水の際に現れた神亀の甲羅にこの図が発見されたという起源に因んでつけられた名称といわれている。広大な国土を治めるために天文治水に心を砕いていた古代中国の話だ。

 魔方陣の縦、横、斜の各数の和が十五になるという摩訶不思議が雛飾りの様式にとり入れられたのは、江戸時代の後期と考えられる。江戸中期の奢多禁令を経て、座雛の形が小型を余儀なくされると、その見栄のために雛の数がふえ、調度も多種多彩となり、その飾り付けは拡がりを見せ、雛壇の定着、雛段数の増加があった事は容易に考えられる。明治の改暦以前の社会では、紀年月日は勿論、方角や時刻等々に干支があてられ、生活の隅々にまで及んでいた。また、徳川三代に仕え、その影響頗るだった天海僧上の天源術を始め、江戸幕府の為政にまつわる中国哲学思想の波及は、一般階層の魔方陣の魔訂不思議への理解が容易な土壌だったといえるだろう。

「にんぎょう日本」1992年3月号掲載

雛人形 なぜ15人飾りか vol1

雛人形 なぜ15人飾りか vol1

なぜ15人か?魔方陣の図

- 込められた心を考える -

ひなだんという呼称は、雛段飾りからひとり旅をして、国会議事堂のひな壇や、さまざまな会議場お祭広場のひな壇であったり、構築物や事象の形容にも用いられて活躍。地についた日本語としてひとり歩きをしている。そのことを考えると、雛づくりにたづさわる者として肩身の広い思いがする。

そして、その仕事に自信を持ちたいものだと思う。

雛は日本国有のもので、世界に冠たる人形の文化として誇りを持ち続けながら仕事をしていきたいものだと思うのだ。かつて、米国の民族学者F・スタール博士はそのことに触れ、ついで日本人は誰もが雛と人形のちがいを知っている、と指摘されていたのは随分と昔になる。

心の時代が唱えられて久しいが、天竜寺の平田晴耕老師は、心を考える時代だとおっしゃる。今こそ長く受け継がれた雛をわが国固有の文化として捉え、祖先たちの注いだ心を知り、雛に込められる心を考える時代が到来しているといえるだろう。

ひなまつり、雛の節供の由来については、いろいろな解説がなされ、その発展の経緯に関し幾多の考証があって、ひとつ、雛学と呼んでもよいのかも知れないほどだ。しかし、ひなまつりの祭神にあたる雛段飾りが、かたちを整えて今日の発展を見た現在でも、そのかたちの主役というべき十五人揃の構成は、単につよい民俗信仰に支えられ、普及してきたと思われるだけで、そのはじまり、その人数の定着にふれた文献資料、その解明などは見当らない 人形史の流れのうちでいわば、盲点といってもよいだろうか。その数の根拠を訊かれて雛飾りに注がれた心を知って、その答えは用意されたい。

十五人揃雛段飾りには、すぐれた様式美があり、その構成にはひなまつりの完成された文化の香りさえある。正統派の雛飾りとして、雛人形にたづさわる者はあらためて認識を深め、自覚しなければ、ゆめゆめ業界の発展はゆるされまい。

すぐれものだけが時代を超えて残るのは真実だ。憶測が許されれば、十五人揃発祥に思いを寄せたい。

(次回は魔方陣の図にその答えの一つを求めて―)

「にんぎょう日本」1992年2月号掲載

 

 

 

雛人形 お雛さまは、右か左か

雛人形 お雛さまは、右か左か

右か左かrf

一陽来福、今それは、歳旦の日の出の一瞬を指していうように思う。大晦日の暗闇の時間を待って、御来光を浴びた瞬間から年が改まる。人々は素朴に時の流れを感じ、白い息を見つつ太陽の光と熱に感謝の念を抱き、新しい力を宿す期待をもって手をあわせる。

しかしこれは、厳密には冬至を指していうことば。冬至の日は太陽が最も斜めに照らす日で、昼間が最も短いため、最も弱い太陽となるわけだ。その後次第に光と熱を増しながら、昼間が長くなってくる。太陽の光と熱は穀物の成長に欠かせぬものだし、人間の生活も明るい暖い春の光への期待があつて、冬至が一陽来福の日、その萌しを春に向ってつなぐ日とされた。

夏至から少しずつ夜が長くなり、陰極って陽が萌す原理で、冬至を年の始めとする冬至正月の暦が、中国の周の時代につくられている。

我国では明治の改暦以前、年号や方角、時刻などを十干十二支で表わした。十干十二支は植物の成長の様子を表わすものと孝えられるが、陰暦でいう十一月は子の月であり、五月が午の月となっている。子の字は陰と陽の交りを表わし、時刻としても昨日のおわりと今日のはじめが重なつて子の刻がある。

また、午は昼の十二時を指す正午として今でも使われている。地球上の南北を示すのは子午線だが、一年の冬至夏至を結ぶ線も十二カ月が円形に廻る図式では子午線と呼んで暦の上では大切にされた。

蓋、子午線は古代の中国哲学の原理である陰陽思想の要素の一つになっている。陰陽というとかび臭く・古い考えと思われるが、実は天文観察から生まれていて、意外に科学的で奥深く究められ、自然界の摂理を文字に置きかえて現代の我々が読んで新鮮に感ずることが多いのに驚く。十二月の図を陰陽で表わすと、子午線を軸に右まわりをすると右半分、つまり冬至(子)から夏至(午)までが陽の気候であり、午から子の月に向つて陰の気候になる。そして、一日の動きにもそれがいえる。

方角方位として考えると、子が北で午が南となり、十二支を配当すると東が卯、西は酉、北東は丑寅、南東は辰巳、北西は戌亥、南西は未甲となり、方位と時刻月次が同会する丑寅は鬼門、辰巳芸者、いぬいの蔵など、今でも時々耳にする。卯は東で、卯辰は太陽の昇る刻限だ。酉は西で陽が沈む。

人の世のさまざまが写し出されていると考えられる雛の世界にこのことを当てはめてみれば、対雛の男雛を陽、女雛を陰とする見方は容易だし、対雛の鎮座の位置の自然の姿が解る。因みに、何人も絶対に曲げることを赦さぬ仏像の儀軌によると、その左手は慈念手、右手は悲念手とも呼ばれ、仏教の原点の慈悲の心を意味する。慈は如来の心で父親の愛であり、悲は普く包む観音菩薩の心であり母の愛を表わすとされる。対雛の男女の位置について、右か左かどちらが本当なのか問答は多いが、数年来私はその答を迷わぬことに決めている。

「にんぎょう日本」1992年1月号掲載

 

 

 

ひな祭りと雨水について

ひな祭りと雨水について

何代も以前の祖先たちが、生活の基準として千年以上に亙、従ってきたもともとの原理に照らし、私たちに伝えられた数々の祭りや習わしを、読み取らねばならない。

初節句を迎えた女児のために飾るお雛さまは、毎年迎える雛節供に向けて少なくとも明治の改暦以前には、二月の春分彼岸会(中日をはさんでの三日間)が済むのを待って、雛建が(三月三日の節供に向けて、雛飾りをする)があった。

ごく最近、二十四節気で一月の節中雨水が雛建の日で、二月節気啓蟄の日お雛飾りをしまうのが昔から伝わってきた雛人形解説を聞く、しかしそのような説は、伝わっていないのが事実といえる。

明治の改暦後の暦では、正月の節気雨水が二月の月中頃にあたり、旧暦二月の啓蟄は、新暦では、三月の六日頃に当たるので、現在の三月節供に準じ当てはまる故と考えられるが昔からの言い伝えにあたらぬ。

大戦後かなりの期間、各年のお節句には、新暦の節供、旧暦の節供の地域が存在した(現在も旧暦や、月遅れの地域がある)。業界でも、新旧地域向けの対応が続いたのは、記憶に新しい事である。

ただ桃の節供の季節感は、昔の呼び方で三月は辰の月といい文字通り自然界に水があふれ草木が勢いよく大地を覆う。

上巳の節供の元々といわれる、巳(蛇)が冬眠から覚め命がけの脱皮をすることで成長をする姿の神秘を昔の人達は、吾身のけがれを祓うみそぎと重ね、生命を生む力を授かってきた女児の節供に結び付け、大切に女児の祭りとして祝ったに違いないと考える。

世代三代の意味 -七段飾りを読み解く13-

世代三代の意味 -七段飾りを読み解く13-

伊勢の遷宮の際に、新しい橋がかかると渡初式(わたりはじめしき)が行われます。

この渡り初めには全国から3世代そろった元気な夫婦が呼ばれます。老夫婦、子供夫婦、孫夫婦が新しい橋を東西に渡り、長寿の橋を祈願するのです。

伊勢神宮

世代三代の三人仕丁は、一人前になるまでの人間のあり方を伝え、長寿への願いをこめたものといえます。

彼らも三人揃ってこそ意味をなす、ひな壇の大切な組雛です。

世代三代と三人仕丁 -七段飾りを読み解く12-

世代三代と三人仕丁 -七段飾りを読み解く12-

ひな壇の五段目に並ぶのは、3人の仕丁です。仕丁とは貴族などの家で炊事や掃除などの雑役のことです。

向かって左から、口開きの怒り(中年)、泣きべそ(若い男)、箒を持った口開きの笑い(年寄り)と並びます。

 

この世代3代というのは面白いもので、人間をよく表しています。

例えば大工仕事でいえば、年寄りはお金も足りて仕事も足りて、物事を聴く力があり、教える力がある棟梁格なのでにこにこ笑っている。真ん中は、体は成人しても仕事はまだ半人前の泣きべその若者。そして怒っているのは仕事もできて一生懸命シャカリキになって働いている中堅。

三人仕丁はこの等に、時間の流れをもっている組雛なのです。

 

並び方は、中左右と言って、真ん中に一番偉い人、左に次の位の人、右に一番下の人という神道の並び方をしています。やはり向かって見ると左右は逆なので、若者、年寄り、中年の順に偉いことになります。

若輩者が一番偉いというのは不思議かもしれませんが、若いというのは未来に対する力を一番もっている存在ですので、若い方が尊いとしたんですね。

守護像としての随身(ずいじん) -七段飾りを読み解く11-

守護像としての随身(ずいじん) -七段飾りを読み解く11-

ひな壇の4段目、左右の端には随身が控えています。

随身というのは、高官の警護などをした武人のことです。左上位なので左にいる方が位が高く、向かって右の年配の姿が左大臣で、向かって左の若い姿が右大臣です。

向かってみると左右が逆なのでわかりづらいかもしれません。

 

武人である彼らは、狛犬や神社の門などにいる阿吽(あうん)像、随身像と同じような役割を持っています。

これらの一対の像をよく見てみると、一方が口開き、一方が口結びをしています。また、阿吽像は、口を開いている方の手は開き、結んでいる方の手は同じくぎゅっと握られています。

彼らは背後にいるもの(ひな壇であればおひな様とおだいり様)を守る守護像なので、陰陽の理を元にした結界を張っているのです。

 

以前にもお話ししましたが、ひな壇は向かって右が陽、左が隠として作られています。

随身もこれに従い、向かって右の左大臣は陽なので口開き、右大臣は隠なので口結びになっています。

今の五人囃子が同じ髪型ばかりの理由 -七段飾りを読み解く10-

今の五人囃子が同じ髪型ばかりの理由 -七段飾りを読み解く10-

組雛ごとに売られる方法は形を変え、やがて店頭では十五人揃の雛段飾りと、飾り段用九品の雛具でセット販売される規格が広がり、雛人形の業界は隆盛期を迎えました。

しかし、売れすぎると今度は従来の生産では間に合わなくなったのです。他聞にもれず、五人囃子の雛頭はみんな、大鼓の型が使われるようになりました。つまり、五人一律の簡略形がとられるようになったのです。

十五人それぞれの頭を用いた本来の伝統は、少し消え失せるかのような流れで現在に至っています。

 

私どもの作る雛人形は、今も五人囃子の顔は一つずつ変えています。なぜなら、五人の髪型には子供の成長への願いが込められているからです。

 

五人囃子がどうして童子の姿をしているのかについては、また別の回でお話ししたいと思います。

五人囃子の髪型 -七段飾りを読み解く9-

五人囃子の髪型 -七段飾りを読み解く9-

少し専門的ですが、五人囃子の童頭の形を向かって左から紹介します。

 

・大きく口を結んだ太鼓:どんずりに結び上げの鬢(びん)、髪がワンカ、やっこ鬢はり

・口開きの形の大鼓(おおかわ):どんずりに前下げの髪、長い下げ結びの鬢

・ちょぼ口の小鼓、どんずりに長く下げ結びの鬢

・吹きよせ唇の笛:カムロの髪型

・口開きの謡

(紹介した結髪・面相については、頭師としても長老である鈴木柳蔵、石川潤平氏にその確認を仰ぎました)

 

こうした一連の五人囃子の規格は広く使用され、昭和30年頃までその形式は続きました。

その姿は当時はごく当然のものとして扱われていました。

 

またその当時までは、親王、官女、五人囃子、随身、仕丁はそれぞれ組雛として桐箱や前硝子の飾り箱などに入れて販売されていました。

これは御殿飾りや雛段飾りが十五人揃えになるのを前提にして、好きなようにひな壇の十五人を集められるというもので、自由で縦横な販売がされていました。

ですが現在では、五人囃子の髪型はみな同じというものが広く販売されています。

五人囃子だけが子どもの顔 -七段飾りを読み解く8-

五人囃子だけが子どもの顔 -七段飾りを読み解く8-

さて、どうして五人囃子は童顔なのでしょうか。

親王対雛(おひな様とおだいり様)を主役とした七段飾りの雛十五人揃。その中でも五人囃子の組雛(幾つかで1まとまりの雛)は、ひな祭りを音楽で囃す、欠かせない存在です。

赤ちゃんの形代(かたしろ)でもあるおひな様・おだいり様のために、健康で良い一生を送れますようにと、穢れない幼な子の姿で五人囃子にうたい上げてほしい。そんな意味をこめたのでしょうか。

 

ひな壇には男女対雛を最上段に、三人官女がすぐ下の段、三段目に五人囃子、四段目は随身、五段目に供仕丁で十五人の雛が陳列されます。

その中で五人囃子の組雛だけは、唐子(からこ:中国風の服装や髪型をした子ども)の童顔が用いられ、他の雛たちには成人した顔立ちと髪型の頭(しょう顏)が用いられてきたのです。

幼児の無心の尊さと五人囃子 -七段飾りを読み解く7-

幼児の無心の尊さと五人囃子 -七段飾りを読み解く7-

幼い子のあどけない、時間も忘れて遊ぶしぐさ。声をかけても振り向かない、汚れても気にしない無心さ。

そんな三昧の境地とも呼ぶべき童心の純粋さは、誰も憎めず、むしろ尊いものだと思います。

雛人形の五人囃子は、こういった無垢な子どもの顔で作られることになっています。

 

昔から中国では、十才を幼、二十才を弱、三十才を壮、四十才を強、五十才を艾(がい)、それ以上は十才ごとに耆(き)、耄(もう)、たい背(たいはい:「たい」の字は魚へんに台と書く)というふうに呼んでいます。

また七才は悼(とう)、五才は童(どう)、三才は孩(がい)ということで、各年代に呼称をつけることで、その歳の人のあってほしい姿を表現しました。

悼と耄、つまり幼児と老人は罪があっても刑を科されず、社会のきまりの外において見守ったといいます。

五人囃子の子どもの姿には、そんな自由さも込められているのでしょう。

三々九度の盃で魂がつながる -七段飾りを読み解く6-

三々九度の盃で魂がつながる -七段飾りを読み解く6-

今でも神道式の婚礼の儀では三々九度の盃を飲みますが、夫婦と両家の親族が同じ盃で酒を交わすことにより、異なる親族が魂がつながりを持つとされています。

宴席を同じ盃が一巡すると一献(いっこん)となり、廻る盃で一回(ひと口)飲むことを一度といいます。一献の盃を三度に飲んで三献を重ねるので、三々九度の盃となるのです。

古代中国では、祝宴の席に人を迎える最高の礼が、九献とされていました。この文化が日本に渡り、いつのころから九献が三々九度の盃に転じたのかどうかは定かではありません。

日本創生神話と酒器の種類 -七段飾りを読み解く5-

日本創生神話と酒器の種類 -七段飾りを読み解く5-

日本創生神話にある男女の神にまつわるお話しで、どのように二人が出会い、命が生まれたのかというお話しをご存知でしょうか。

天の御柱の周りを男神が左廻り、女神が右廻りをして出会い、美斗(みと)のまぐあいがあり日本が誕生したという日本創世の神話。これに倣い、ひな壇では左の瓶子(へいし:お酒を入れる壺型の焼き物)に雄蝶、右の瓶子に雌蝶の蝶花形(ちょうはながた)を飾ります。

 

この男女の二神に供えられた神酒は、まず雌蝶の瓶子から提子(ひさげ:注ぎ口のある金属製の器)に移し、次に雄蝶の瓶子の神酒をその上に注ぎます。さらに提子の神酒は、長柄(ながえ)の銚子(ちょうし:酒を移し入れる時に使う器)に移され、盃に注ぎます。神社で行われる神道式の結婚式では、今も見かけることの多い手順だと思います。

酒器

提子(ひさげ)には雌蝶、銚子(ちょうし)には雄喋の蝶花形が飾り付けられますが、この二つと左右の瓶子(へいし)一対を合わせて四丁(しちょう)になるのを忌み嫌い、菱飾りがつく形式もあります。今もそうですが、昔も四の字は「死」を連想させるため避けられたのです。

 

このように男女の二神にまつわる神酒の器は、二神が出会うことで命が生まれたという神話にあやかったものなのです。つまり婚礼の儀は、次の世代の誕生を祈ることでもあるのです。

三人官女たちは婚礼の儀の進行役 -七段飾りを読み解く4-

三人官女たちは婚礼の儀の進行役 -七段飾りを読み解く4-

本来、両側の官女は神に仕える巫女の姿をしています。未婚の女性のため眉があり、左の官女は口を開き、右の官女は口を結んでいます。

三人官女

中央の官女は待上臈(まちじょうろう)と呼ばれる年功を積んだ女性です。彼女は袿(うちき)を着て眉がなく、口を開けて祈っています。この女性は婚礼の司会をして祝詞(のりと)の口上を述べ、式三献(しきさんこん)の儀を進行させます。

では、三人官女たちが執り行う古来の結婚式の様子を、ひな壇を通してもう少し詳しく見ていきましょう。

お雛様とお内裏様の左右のお話

お雛様とお内裏様の左右のお話

お雛様・お内裏様を左右どちらに置くかというのは、様々な考え方があります。

 

例えば、その時代の天皇さまと皇后さまの座り方に倣った並べ方です。

昔は一般的に、向かって右が高貴な方が座るという考え方をしていましたので、右がお内裏さま、左がお雛様とされていました。

ですが大正から昭和にかけて、西洋に合わせて並びが逆になりました。式典の際に向かって左に天皇さま、右に皇后さまが並ばれるようになり、雛人形の飾り方もそれに習って左にお内裏様、右にお雛様を飾ることになりました。

 

 

ここで吉貞人形では、明治以前と同じく「向かって右にお内裏様、左にお雛様」としています。

というのも、もともとの右に男、左に女という並びにはきちんと意味があって決められていたものだからです。

 

雛人形というのは、生まれたばかりの女の子の無病息災を願い守ってくれる結界としての役割を持っています。そのため、七段飾りの形ができあがるまでには、赤ちゃんを守るために中国の陰陽思想をはじめとした様々な試行錯誤がなされたと考えられます。

 

古代の中国からの陰陽思想では、世の中のあらゆる物事や宇宙の森羅万象を、対となる陰・陽の2つの要素で分類しました。

イメージを持ってもらいやすいように、下記の表をご覧ください。

陽:男、太陽、昼、光、夏、春、天、火、明、上昇、能動的

陰:女、月 、夜、陰、冬、秋、地、水、暗、下降、受動的

陰と陽というのは互いに補い合う関係を表します。どちらか一方が欠ければどちらも存在できません。

例えばこれは、生命としての男女の関係にも例えられます。古来より男性は陽、女性は陰としてのイメージが持たれてきました。そのためお内裏様は陽、お雛様は陰となります。

 

さらに古来、「君子南面す」といって、帝王は南を向いて座るものとされてきました。するとお内裏様から見て左手が東、右手が西、背後が北となります。

太陽が昇る東は陽、沈む西は陰と考えられますので、向かってお内裏様は右、お雛様は左に飾るのが自然な形となるのです。

(図も出します)

 

これらの工夫がお雛様の七段飾りに現れていますので、詳しくはこちらをご覧ください。(現代の名工ページへのリンクを貼る)

お雛様の由来

お雛様の由来

お雛様の歴史はどのように始まったのでしょうか。その答えは一つではありません。
長い時間をかけて、日本のいろいろな文化や季節の儀式などが合わさり変化しながら、
今のお雛様の慣習が作られてきました。

3月3日のひな祭りは「上巳(じょうみ)の節句」とも言われ、平安時代に始まりました。
貴族たちによって3月の最初の巳の日、つまり上巳の日に、女の子のための無病息災を祈願するお祓いがおこなわれていました。紙人形(ひとかた)や土、草、わらなどで作った人形にお供え物を添え、厄災を引き受けてくれるよう願いを込めて、川や海に流しました。この文化が次第に庶民にも浸透して、広く行われるようになったのです。農民の間では、農作物が無事育つように、人形(ひとかた)を撫でて穢れをうつし、水に流していました。
この上巳の節句は中国から伝わったもので、「桃花節(とうかのせつ)」とも言われました。ここから桃の節句とも呼ばれています。
もう一つのお雛様の由来に、「ひいな遊び」があります。紙やわらなどで作った男女の人形で、宮中の貴族の子どもたちがままごと遊びをしていたようです。平安時代に書かれていた源氏物語にも記述が出てきます。
この上巳の節句とひいな遊びが次第に合わさるようになり、今の形に近づいて行きました。

時代が進み、宮中で行われていた雛遊びは、京都から江戸へと伝わります。江戸の活気ある武家・町人文化の風俗の中で、人形作りは盛んになり雛市も開かれていました。
この江戸の豊かで比較的平和な時代に、立ち雛以外に座り雛が生まれるなど形が変化したり、色鮮やかな加工方法や技巧が考案されたりなど、お雛様の文化は職人たちの手によって華やかに変化していきました。