記事掲載されました。
5/15東京新聞群馬栃木版に掲載されました。
5/15産経新聞栃木県版に掲載されました。
5/15読売新聞栃木県版掲載されました。
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5/15東京新聞群馬栃木版に掲載されました。
5/15産経新聞栃木県版に掲載されました。
5/15読売新聞栃木県版掲載されました。
五月人形出し飾り用 鍾馗
昔、武家社会の中で、鎧とは魂を宿し人間の身代わりとして考える習慣がありました。そこで、鎧に陰膳(出征その他に出た不在者のために、その者が旅行中に飢えたり、危害を加えられ安全を脅かされたりしないように祈り願って、留守番がその者のために留守宅で供える膳である。)を供え無事を願いました。
今日端午に節句に於いて、鎧兜を飾るのは、人間の身代わりという考え方を持ち込んだもので、鎧兜は、男子の形代(かたしろ)として飾って頂くわけで、ひな人形同様に、撫で物(触ることで、形代に厄災を移す。)として、そして箱にしまうことで封じ込めて下さいと願うお祭りと考えてよいと思います。
そこで、男児の身代わりとなる鎧を鍾馗様に守ってもらおうと考えました。そのため、仁王さま同様、阿吽(あうん)の顔としました。口を開いた阿行形の表情の鍾馗に、赤い衣裳、赤い髭の陽の鍾馗を鎧の左前に配置し、口を結んだ吽行形の表情の鍾馗に黒い衣装黒い髭の陰の鍾馗を鎧の左前に配置して、鎧兜(お子様)に良くない事は、受け付けませんという構えにしました。
鍾馗とは何かについて
一般に知られているのは、黒い鐘馗かと思いますが、
赤鍾馗は、朱書きの鍾馗として、疱瘡よけや、旅の護り札、として盛んに用いられた時代がありました。
鍾馗は、関東では五月人形や武者絵幟、関西では屋根や軒上の瓦を連想する。時代を超えて強い男、邪悪を制する正義漢として伝えられてきました。
その発祥の伝説は、唐の玄宗皇帝の時代とされ千二百年余以前である。唐逸史の中に玄宗皇帝が、熱病に罹った時夢の中に小鬼が現れ、楊貴妃の香袋と笛を盗んで行こうとしたのを叱責すると虚耗と名乗った。帝が聞かぬ名だと言うと「虚」は、人の物を盗んで悪さを、「耗」は人の喜びを減じ憂と化すと答えたので帝は、怒って衛仕呼ぼうとした。するとそこへ、破帽をかぶり、藍の袍をまとい、角帯に朝靴をはいた大鬼が現れて、小鬼を退治してしまった。帝が何人(なんびと)かと問うと「私は、終南山の進士鍾馗也、武徳年中に科挙の試験に応じたが落第したので、国に帰るのを羞、宮殿の階段に我が身を打ちつけて自殺したが、このとき帝より緑袍を賜わり、手厚く葬られたので、その恩に感じ、今日天下の虚耗を駆除するために現れた。」と言った。その言葉が終ると同時に帝は、夢から醒めるとともに、病が癒っていることに気が付いた。帝は、早速お抱え絵師の呉道子を呼び、夢の中の光景を話し描かせたが、全く夢の中の人物と同じだったので百金を下賜されたと書かれている。この絵がもとで、鍾馗の姿は、日本にも伝わり今日の鍾馗の人形もあります。
それから、中国の官吏試験の厳しさは、昔から有名だしこれに失敗して世をはかなんだり、人々を恨んだりという事が多かったことは、歴史が物語っています。
鍾馗は、受験地獄の待つ世の中に生まれてくる子供達にとって、受験の大事な守護神となってくれると考えます。
高砂人形は、共に白髪になるまで仲むつまじく添い遂げることを願って
結納などの夫婦和合と、還暦祝いや敬老の日など長寿の祝いに贈られる縁起物です。
夫婦仲良く「お前百(掃く)までわしゃ九十九まで(熊手)」とそれぞれの手に熊手と箒をもち、
互いの長寿を願います。
おじいさんが持つ熊手は、福をかき集め、おばあさんが持つ箒は、厄を祓い、寿福を抱くという意味があります。
高砂の由来
結婚式などで謡われるめでたい能の曲「高砂」の中に、「相生(あいおい)の松」という伝説の松があります。「高砂」のおじいさんとおばあさんは「尉(じょう)と姥(うば)」といい、二本の「相生の松」の精として能の中に出てきます。
「相生の松」は、兵庫県の高砂神社の「高砂の松」と、大阪市の住吉大社の「住吉の松」の2本を合わせてこう称します。
「遠い地にあっても、夫婦のようにお互いを思う気持ちがあれば、心を通わせられる」
ということから、二本の松は合わせて「相生の松」と呼ばれていました。
高砂人形では能の「高砂」と同じように人形は能の衣装を着て、おじいさんは住吉の松の精、おばあさんは高砂の松の精として、互いの長寿と夫婦和合を祝って舞う姿を表現しています。
飾り方
向かって尉(おじいさん)を左、姥(おばあさん)を右に飾り、おじいさんは熊手を、おばあさんは箒を持ちます。
互いにやや内側むきに置くと、夫婦仲が良いように飾れます。
昔、中国の玄宗皇帝が病の床についてたところ、ある時夢に、鍾馗(しょうき)と名乗る力強い鬼神が現れ、病魔の鬼たちを退治しました。
夢から覚めた皇帝の病は癒えており、皇帝はすぐに有名な画人にその鬼神の姿を描かせました。その絵は邪気を祓う効力があるとして、世の中に広まりました。
鍾馗の姿は大きく、濃いひげをはやし、黒衣姿に剣を帯びています。
この鍾馗の姿は日本へと伝わり、今では関東を中心に五月人形として端午の節句に飾られます。五月人形としてでなく、鍾馗の像や絵は守り神として様々な祭りや場所に飾られたため、五月人形としても贈られるようにになったのかもしれません。
飾り方としまい方は、鎧兜などの五月人形と同じですので、こちらをご参考ください。(リンク)