ひなつく里花伝

ひなつく里花伝

ひなつく里花伝の記事一覧

菱餅の三重 雪のいざない

菱餅の三重 雪のいざない

大阪は新世界のシンボルになっている通天関の天辺てっぺんずっと以前から、つぶさにその様子を見物したかったが、なかなかその機会に恵まれぬ。昨年十一月、名古屋で会った大阪の赤瀬さんにそのことをお話ししたところ、お住まいが近くだそうで、さっそく夜空に映る通天閣の姿を撮ってお送りいただいた。
予報のサインは
ハレ  シロ
クモリ オレンヂ
アメ  ブルー
それぞれの色で天候が表示 されるのが、とてもユニークだが、大阪地方ではめったに降らぬと聞く雪の天侯に、予報では一体どんな色を用いるのか、興味がそそられる。それはハレの予報 に雪の色といえる白を使っているのと、実は雛の座のお供えものには欠かせぬ、菱餅に伝わる色づかいにことよせていたからである。
春は三月十二支では辰の 月、辰は水を表わし、自然界に水があふれて草木の生長を助け、動物の活動が促される月。和名での月の名は弥生。太陽暦ではほば四月と思えばよい。陽気に満 ちたこの月の上旬には雪の降ることもあって、人々を驚かす時候でもある。春分も通り過ぎて三春の区分では季春と呼び、現今では晩春とか暮春ともいわれる時 侯に当たる。殺伐とした話で恐れ入るが、史実として陰暦三月三日の降雪に桜田門外の変があり、雪の夜のできごととして名高い。
節のものを供えたことから、節供という言葉が生まれた。
菱餅の三重 雪のいざない
三月三日。 重三ちょうさん
三重の順序は、 一面の蓬草の上に雪が積もり、雪の大地には桃の咲く風情で、あかは桃の花の未来を知る吉祥、しろは純真清浄、あおは邪気を除ける象意が注がれ、三位一体の供え物とした。加えて菱の形は、足利将軍時代からの延命長寿を願う、歯固(はがた)はじめに触れた通天閣の天気予報の雪は、自身の色である白をハレにゆずり、奇想天外と思える桃色に点灯し、表示されるのは面白い。按ずるに菱台にのせ、雛壇に供えられる、三重の菱餅の色がさねに連想が働き、雪の上に散る桃の花を彷彿とさせるのは楽しい。
雪の色に桃色を選んだ予報の点灯の定まりには、きっと三重の菱餅とのないまぜが働いているに違いない。
2菱餅の三重 雪のいざないさて、菱餅をのせる菱台なるものが出はじめたのは、およそ寛政ごろ(約二百年前)という。折敷おしきいずれにしても、菱台という調度は雛壇のために生まれてきたものといえよう。
ちなみに雛具の扱いの上で、膳揃と呼ぶときは菱台、高坏、三方飾に膳椀を加えた組物を式正とし、三品揃は菱、高、三方揃とも呼んでいる。お供え用の雛具として雛壇、雛の座に欠かせぬいわれある故実の伝統は、崩したくないものである。
なお、文中の歯固めについては江戸期の「年中故事要言」に、「本朝の風俗には、元旦に餅鏡(もちいかがみ)を用いて歯固めといふなり。人は歯を以て命とする故に、歯といふ文字をよわひとも読むなり。歯固は齢を固むる意なり。また直に歯を固むる意にてもよし。」とある。
古俗に歯固めの供えといわれ、歯固めの供餅の儀礼にゆずり葉、歯朶(しだ)を共に供え、代々ゆずりの延寿をことほぎ、歯朶が歯固めにことよせた縁起は、節のもの(節供)の心が働いて、現代にも伝わっているといえる。 餅(もちい)はもちいいの促音と考える。

婚礼と雪洞(2)ひな祭りに託された願い

婚礼と雪洞(2)ひな祭りに託された願い

さて、婚礼の刻限を確認できるものに、二代将軍秀忠のむすめ東福門院和子のお嫁入りの記述がある。和子は女御にょうごとして元和六年(一六二〇)入内じゅだいしているが、午うまの刻(午前十一時~午後一時)に二条城を出立する流れの中で、和子の牛車は一つ刻ときを要して、御所郁芳いうほう門より新造の女御御殿には未ひつじの刻(午後一時~三時)に到着。そこで休むこと数刻。亥い刻(午後九時~十一時)清涼殿に赴き、後水尾天皇と初めて対面し、次いで常つね御殿に渡り、三献の儀式が行われている(「女御々入内記」より)。
古法に従った事録に接すると、亥の刻限、亥の月、神無月の婚礼、さらに華燭の典という辞ことばの由来にも想いが及ぶ。
桃の節句。町雛として盛んな拡がりを見せたひな壇の最上段には雪洞が灯る。宵闇の暗がりにほんのりと浮かぶ男女一対の内裏雛。二段目に三人官女が控える姿は、ひな祭りとして日本人の誰からも愛されてきているが、実は婚礼の絵巻でもあった。初節句を迎える女の子のために、おだいり様。おひな様と称よんで飾られる男女一対の内裏雛の姿には、やがては健やかに成人して、おだいり様のような素敵な男性に出会い、文字どおり三国一の花婿に恵まれるよう、そして豊かな結婚生活がかなうようにとの願いが込められている。
つまり、初節句を迎えた女の子の形代(かあしろ、身代わり)とされるおひな様にとって、おだいり様は″赤い糸で結ばれている″将来の夫となる男性の理想像をないまぜにしている。
(2)ひな祭りに託された願い
いずれにしても、ひな祭りでは初節句を経た女の子の身祝いとして、年毎の節句の度にひな人形に託して一年無病息災であることへの願いが込められてきた。
人はよく、赤ちゃんには親を選んで生まれてくることができないというが、女の子が胎内で出遭った祖先の穢けがれ、遠い原始の祖先たちの畏おそれを知らず知らずに受け継いできていることヘの修祓しゅうばつの願いも、込められていたと考えられる。
お祝いする女の子の成人に寄せた婚姻の願望が強く働いて、その予祝を重ねるなど、生命を宿す力のある女性の成長に対する両親、祖父母の思いはひな祭りに多くの願いを寄せている。
もともとひな祭りは上巳の節句に包含される。五節句の上巳の節句は中国から流入したものだが、我が国では古くから巳の日の祓の思想が原点にあって、ひな祭りの祝いがなされてきた。
巳とは蛇であり、冬眠から覚め、自然界に水が溢れてくる季節、蛇は自身の身体を脱皮して成長する。
祖先たちはその姿の神秘を身殺みそぎとして感じ、災厄や穢れを我が身からそぎ落として、無病息災や清浄な心身を祈願してきた。ひな祭りの祝いが年中行事として行われるのも、蛇の脱皮擬もどきといえよう。
(次号に続く)
「にんぎょう日本」2000年2月号掲載

婚礼と雪洞(1)赤い糸で結ばれている私のおひなさま

婚礼と雪洞(1)赤い糸で結ばれている私のおひなさま

十月は陰暦では和名を神無月とよび、十二支で数えると亥い(猪)の月とよんだ。
国中の神々は出雲の国に集まり、出雲以外の各地の神様の社やしろは、神不在の月にあたる。
それゆえ、神前での婚礼は無意味なものではと思えるのに、十月は婚礼のシーズンとされ、
婚礼の知らせもこの月に重なりやすい。なぜなのか。そこには神無月の神不在を俗説として
寄せつけぬほどの何かがあるのだろうか、興味をそそられる。
そのことはさておき、婚礼の歴史を知るうえで、面白い記述がある。
「婚礼は夜する物也。されば古法婚礼の時、門外にてかゞり火をたく事、上臈(じょうろう)
脂燭(しそく)をとぼして迎に出る事旧記にある也。男は陽也、女は陰也。昼は陽也、夜は陰也。
女を迎うる祝儀なる故、夜を用ル也。唐にても婚礼は夜也。されば婚の字は女へんに昏の字を書也。
昏は(くらし)とよみて日ぐれの事也。
今大名などの婚礼専ら午の中刻などを用る事、古法にそむきたる事也」。
江戸期の『貞丈雑記』にある考峯で、祖先たちが婚礼にどう臨んでいたのかが分かる。ここで大切なことは、自然界の時の流れであろう。陰と陽の二元に対する思い入れである。
一日に昼と夜の陰陽があるように、四季一年にも陰の季節と陽の季節の循環があり、その区分がなされる。
月日や時刻まで十二支の数詞でよんだ昔、十月は亥い(猪)の月にあたる。陰暦での十月は、冬至がまわってくる子ね(鼠)の月を前に、一年では一番日脚が短く、夜長の時期。夜の陰の深まりが四季を通じて最も強く感じられる月であり、十二支最後の亥の月になっている。
冬至を境にして日脚は少しずつ伸びる。陰極まれば陽に転ずるたとえの通りに、亥の月には冬至を前にして一陽来福という明るい伸展への願いがあったに違いない。冬の寒さを表したものに、「冬至、冬なか、冬はじめ」という気象用言があるが、亥の月に立冬があり、子の月に冬至が、丑うしの月に冬の了おわりが告げられ、寅とらの月は(旧)正月。春がやってくるのに、寒さが続く。
一日十二刻を十二支でよぶときにも、今日一日の了おわりと明日の一日の一はじめを意味した子の刻は真夜中で、夜の陰が深く、季節の冬至と同様、夜明け前の寅の刻まで夜陰が続く。ありていに申せば、四季の陰陽、昼夜一日の陰陽の区分を感じとり読み取るのは、平成の私たちにとって努力を要する。
(次号に続く)
「にんぎょう日本」2000年1月号掲載

地蔵の剃髪童顔

地蔵の剃髪童顔

東大寺大仏殿の真ん前の中庭に、唯一創建当時のものとされ、天平時代の優れた文化を今に伝える金銅燈篭がたっている。
この燈篭のレリーフの美しい音声おんじょう菩薩は、童顔の姿である。盧庶那仏るしゃなぶつの正面に立つ灯りは、仏への観想の世界による配置と思われるが、私にとっては五人囃子の童児形を考える嚆矢となった。
本尊に対する声明しょうみょうの流れ、そして童顔の菩薩の姿は、対雛と五人囃子の配列を彷彿とさせる。
五人囃子の子どもの姿の果たす役割に想いを巡らすと、私たちの身近には、日本人の誰もが知っている地蔵菩薩の姿があるのに気づくだろう。
菩薩像は儀軌によって頭に宝髻ほうけいを結い、宝冠を戴き、体には瓔珞ようらく、首飾り、臂釧ひせん、腕釧わんせんそして足釧をつけ、天衣てんね、 条はく、もすそ(裳)をまとう姿が常だが、大地の慈愛の顕現とされる地蔵菩薩だけは剃髪童顔、そして衲衣のういの姿で人々の信仰をあつめている。お地蔵様と呼ばれ童謡や俚謡にうたわれ、最も親しみの深い仏といえる。
地蔵の功徳はこの世に止まらず、あの世にあっても救いの手をさしのべ、現世来世に及んで人々の魂を救ってくれる。賽さいの河原の造塔功徳をうたった地蔵和讃など、親に先立つ子どもの哀れが、聞くものの心を揺さぶり涙を誘う。子どもの守り本尊とする地蔵信仰の定着も、子どもの命への親の思いの深さによるものといえる。
さて、人の一生についてこの世に生を享けた、つまり懐胎がなされたときを生有、生存の間を本有、死期を死有と呼ぶ。また、現世から来世へと次の世に生まれ代わる七七、四十九日をさして中有と呼んで、その世界では魂魄がさまようとされるが、故人の霊魂を救い、浄土へ導くとされる仏が地蔵だ。ことに親に先立って迷い悲しむ子どもの魂を救ってくれる仏ということで、人々の祈願は絶えることがない。
そのためか、地蔵の縁日は毎月二十四日だが、盆の二十四日に行う地蔵供養は、地蔵盆と呼んでいまも子どもたちの手で行われてきている。
お地蔵様と呼んで親しみの深い地蔵信仰は、宗教を離れて強い民間信仰として生きている。頭を丸めた姿の地蔵の童顔の姿は、五人囃子の童児形を考える際、見逃すことが出来ない。
五人囃子の童児形については、幼児の無心の姿を最先に考えてみた。その無心とは清浄ということばに置き換えられようか。五人のお囃子には幼児の清らかさが望まれたのである。清浄こそ、人の霊魂の姿ということが出来る。
(つづく)
「にんぎょう日本」1993年1月号掲載

かくされた童男の理

かくされた童男の理

一から九までの数が、縦横斜め何れからもその和を十五にする魔方陣は、自然界の生命エネルギーの
運行作用を示す洛書の図であることは以前にふれた。九つの数はそれぞれに色彩名が割り当てられ、
人の星ともされて九星と呼ばれる。目には見えぬ時間や空間、つまり季節や年月時刻、そして中心や
各方を陰と陽二元の原理に基づいてその数を配分し、各々の数に天地間の現象を置き換え、綿密な天文観祭を経てその一つ一つに象意が見出されている。これが洛書に示されて八卦と呼ばれる。
「乾は天なり故に父とす」「坤は地なり故に母とす」というように、八卦は人間関係に置きかえ、
さらに「乾坤に六子あり」Lして三男三女がそれぞれ位置され、少男つまり童児は洛書九星図の
八白に象徴されている。
九星のそれぞれに、さらに十二支が配当され、八白の位置は、丑寅うしとら方角で北東、時刻の丑寅はおよそ午前一時から三時、年前三時から五時をさし、丑の月は旧暦の十二月、寅の月は旧暦の正月をさす。
季節に当てると、丑は冬の強い寒気であり、寅は春への移行の時に当たり、八白には変化宮つまり陰極まって陽に転ずる進展の象意を見ることができる。
さて、十二支は本来植物の発生・繁茂そして伏蔵という循環の様子を示したもので、植物が種から始まって実を結び、新しい種を宿す状態を表わす。子は完了と一はじめを意味する種子の状態、丑は種子内で紐状に変化する様子、寅はうご(虫へんに寅)めくで地上への発芽の時とされる。
一日の時間の流れの中では、草木も眠る丑満どき夜の闇が極まって暁に変わる刻限が寅の刻、人間の一生に見立てると母の胎内の暗黒から分娩があり生命の誕生。そして心身ともにめざましい発育を見るこの時期は童児の姿に象徴され、陰の極まりから陽への進展を司る姿として位置づけられている。
十五人の揃雛の中で五人囃子にのみ童児形が用意されたのは、八白の象意によるものといえる。初節句には生命誕生の謳歌、成人ヘの予祝、女児の心身の新生成長進展を節句ごとにはやす。そうした役割にかくされた理は八白童男の象意であり、明治の改暦以前千余年にわたって我が国の人々の生活の隅々まで浸透した十干十二支九星など、陰陽思想の哲理だともいえる。
いろいろな祭によせる人々の心は、その祭の行事のあり方もさることながら、祭にかくされた理でもある。理を求めずしてひなまつりの本来は、やがて失われるときが待っていよう。
完成された形のひなづくりによせた何代にもわたる先輩たちの苦心や智恵は今でも生きている。現在その仕事にたずさわる私たちが、単なる商品と同様の製販にあたるのは、祭具としての雛本来の伝統の崩壊につながる危倶の念にかられてならない。
「にんぎょう日本」1993年2月号掲載

成長への儀礼

成長への儀礼

生旺墓の理によってみる と、誕生から成人までの期間は、生まれる、つまり”生”の部分に当たる。肉体の成長と共に生霊の増殖する養育期であり、受胎あってから帯祝・産褥見舞・命 名式・宮参り・食初めなど、誕生にまつわる儀礼があり、初節供が終わると現在の七五三に相当する髪置(かみおき)、つまり髪の伸ばしはじめを祝う儀礼が行 われた。男女とも、三歳の陰暦十一月十五日に菅糸でつくった白髪をかぶらせるというものだ。
また、三歳から五歳の間に髪の先を肩までの長さで切りそろえる儀礼があり、陰暦十一月十五日碁盤の上に子供を吉方に向けて立たせ、仮親(その子にとって信頼できる他人になって貰う)が盆の上に切り落とされた子供の毛に少し鋏を入れ、川へ流す深枇ふかそぎの儀礼がなされる。
男子は五歳から九歳までの間に、女子は七歳の十一月の吉日に帯直おびなおし(帯解き)の礼をする。小袖の付紐を取り除き、紐のない小袖に帯を結ぶ儀式をする。男子の元服は幼名をやめ、烏帽子をつけ成人の服を着、髪を結い冠をかぶる儀式で十二歳から十六歳位までの間に行われたが、江戸時代の武家は男子十七歳霜月十五日に初冠(成人式)を行って男髷に改め、幼名を成人としての実名(烏帽子名)に改めて元服がなされた。
女子の成女式は鬢枇びんそぎといい、十四歳から十六歳までの間の六月十六日に鬢の先を切る。鬢先を切る役を鬢親といい、碁盤の上に吉方に向かって立たせて鬢を切り、生年月日と名前を書いた紙を川に流す。式が終わると鉄漿おはぐろをつけ、眉作りをして大人の姿になり、式三献を行った後、祝宴が催された。
男女とも成人の式が済むと、肉体も生霊も完成され、活動期”旺”に入り、旺んに活躍することになる。そして男女の霊魂が結ばれる。因みに、大宝令制では男十五歳女十三歳で結婚が認められている。
このように衣裳と共に髪形かたちは社会秩序の上で重きがおかれた。成人後の髪型,髪結の形にはいろいろな約束が込められ、身分・年齢・職業など男女ともその分類は多岐にわたった。そんな中で幼児は埒らちの外におかれ、幼児期の髪形には自由さがあったといえる。
五人囃子の童児の髪形は、その自由さを象徴したものといえる。江戸期以前の文化の移入は中国からの影響がほとんどといえる中で、唐児からこの髪形には雛ひいな本来の可愛さ、あいくるしさを認め、幼児の髪形へのあそび心や楽しさを求めたといえる。それは往時のハイカラ指向のあらわれかも知れぬ。唐児からくり人形に伝わるようにその姿には軽業を彷彿させる身軽さを認め、無事成長のための子供らしさ、活発さを五人囃子の生やす意味に込めたものといえようか。
「にんぎょう日本」1992年12月号掲載

五人囃子の童児形

五人囃子の童児形

幼い子がしゃがんで遊んでいる。声をかけても振り向こうともしない。顔が汚れ、着ているものが泥んこになっているのに頓着がない。時間の経つことなど毛頭気にならない。こんなあどけない姿こそ三昧の境地なのだという。
昔から中国では十才を幼、二十才を弱、二十才を壮、四十才を強、五十才を艾がい、それ以上は十才ごとに耆き、耄もう、たい背たいはい(たいという字は魚へんに台)というふうに呼んでいる。また七才は悼とう、五才は童どう、三才は孩がいということで各年代の呼称にそれぞれ想いがあった。そして悼と耄は、罪があっても刑を科すことがない、つまり幼児と老人は社会の外において見守ったという。
いずれにしても幼児のあどけない無心のしぐさ、童心といえばその純真さ故に誰も憎めないし、むしろ尊いと思う。
親王対雛を主役と考え、雛十五人揃の構成の中、組雛として欠かすことのできなかった五人囃子だけは、どうして童顔が用意されたのか、単に雛まつりの希い本願を、可愛い我が子の形代かたしろでもある対雛に穢けがれない幼な子の姿でうたい上げるためのものだったのだろうか。男女対雛を最上段に、三人官女がすぐ下の段、三段目に五人囃子、四段目は随身、五段目に供仕丁で十五人の雛は陳列されるが、五人囃子の組雛だけは唐子からこの童顔が用いられ、他の雛たちには成人した顔立ち、髪形の頭(しょう顔)が用いられてきた。
五人の童頭は向かって左からどんずりに結ひ上げの鬢びん、大きく口を結んだ太鼓、髪がワンカ、やっこ鬢びんはり、口開きの形が大鼓おおかわ、どんずりに前下げ髪、長い下げ結びの鬢びん、ちょぼ口が中央に位置して小鼓つづみ、どんずりに長く下げ結びの鬢びん吹きよせ唇の笛、カムロの髪型で口開きが謡うたい。こうした一連の形でより広く使用され、昭和三十年頃までその形式は続いた。そしてその姿は当時はごく当然に扱われた。
またその当時までは、親王、官女、五人囃子、随身、仕丁はそれぞれ組雛として桐箱や前硝子の飾り箱などに入れて販売され、御殿飾りや雛段飾りが十五人揃になるのを前提に自由で縦横な販売がなされた。
やがて店頭での販売に、十五人揃の雛段飾りと飾り段用九品の雛具でのセット化販売の規格が拡がると、業界の隆盛期を迎えるが、従来の生産では間に合わず、他聞にもれず、五人囃子雛頭もワンカにやっこ鬢びんはり、つまり大鼓おおかわの型だけで五人一律の略式形がとられるようになった。十五人それぞれの頭を用いた本来の伝統は少し消え失せるかのような流れで現在に至っている(結髪・面相については頭師としても長老である鈴木柳蔵、石川潤平両氏にその確認を仰いだ)。
(つづく)
「にんぎょう日本」1992年11月号掲載

五が十五を生む

五が十五を生む

森羅万象、あらゆるものは生 まれると成長を重ね発達をし、やがて旺んに活動し、最後は消滅し死に至る。これは動かすことのできぬ哲理で、生・旺・墓の語であらわされる。仏教の世界で いう三界の法も、親があり自分があり未来は子であるということも、三才とよばれる。過去・現在・未来という永遠の流れも生・旺・墓の繰り返しといえる。台 風が発生し、次第に発達しながら大暴れをするが、やがてどこかで温帯低気圧に変化し消滅する。毎日の生活には夜明けが、そして日の出があり、日中があり、 夕暮れ、日没があって、朝昼晩、つまり生・旺・墓となる。
九星にみる九気の変化活動 の流れの中で、本位図にあたるのが魔方陣であり、洛書と呼ばれるが、それは各星(気)のもつ本来の方位であり、各方位にはそれぞれ象意があることは前にも 述べた。五黄はその中で中央太極に位置して、生・旺・墓をそして変化活動の栄枯盛衰をつかさどる帝王の星とされる。前号の九星の巡行循環の中で、本位図の 位置を五黄土星が出て各方位に回座すると、この星の廻った方位が世にいう五黄殺の方位でその方位と中央を経て対する方位が暗剣殺の方位となる。本来土気の もつ生物を育む性質と共にあらゆる生命体を腐敗させてしまう力、つまり生殺与奪の力を恐れて大兇方位とされ、人々に忌避されている。このことは方ふさが り、方たがえなどの辞で源氏物語や他の古典に見られる。飛鳥時代に大陸文化が渡来して以来、千年以上にわたって我国の為政の中心はもちろん、兵術にも駆使 されてきたのは、歴史の示すところである。本位図つまり魔方陣は、四方八方に大兇方位のない安定の時であり、魔方陣に生まれる十五の数の神秘をひな祭の呪 術として用いたのであろう。
十五人の考えが誕生した本位図の中で、四は巽(そん)何れにせよ男女とも九星図 の中央の時、この世に生を受け、二回目の中央に来る時成人し活動期に入り、生・旺の旺の部が始まる。特に女性には生命を生み出す力がある。子孫を絶やさぬ という自然界の摂理を大切にする心がはたらいて女児の節供は良縁を得る。やがては母体になるための無事成長の願いが特に強いといえる気がする。陰暦で四月 は巳の月である。巳の月をはさんで辰の月に上巳の節供があり、午の月に端午の節供があるが、巳は自然界では蛇であり、蛇が長い冬眠からさめ、脱皮をして成 長する神秘に信仰が生まれ、五節供の儀礼と習合し、我国固有の節供文化に発展してきたと思える。毎年の節供には蛇の脱皮の擬(もど)きの意味があり、禊は 水注ぎで身殺ぎ(脱皮)の意味があると思える。
十干十二支九星などが盛んに用いられた時代を経てひなまつりは発展してきた。これをふまえず節供の意義をただすことはできまい。
「にんぎょう日本」1992年5月号掲載

ひな15人は自然界の営みを表現

ひな15人は自然界の営みを表現

科学万能の現代生活にあっても、多くの人々が年末年始の時期には、日記と共に運命暦を買い求める。運命暦は、あるいは毎年の定着したベストセラーといえるのかもしれない。そしてそれは、人々の誰もが心のどこかで明日への不安と闘いながら毎日の生活を続けている証といえるだろう。気やすめといいながらも、何かを心のより処にしたいのが人情というもので、そこには昔も今もない。深い深い心の底では、自然界の大きな営みの力を知らず知らずのうちに怖れているのかも知れない。
魔方陣は、その大自然の目に見えぬ営み、運行作用を数字におきかえて具体的にし、その原理を示すもので、その数理の法則は四千年以上の時を経て科学万能の時代の今日に至っても万古不易、宇宙の鉄則とされている。
魔方陣を構成する一から九までの数字はそれぞれの性質をもつ生命エネルギーと解釈できるが、一つ一つが独立して存在するのではなく、便宜的に九つの種類に分けただけのことで、一体となって、限りなく、循環作用し、自然界を支配することになる。私達のすぐ身の周りが電波や磁界作用、肉眼で見えぬ限りない色々な素粒子のとびかう空間であることを感じつつ、魔方陣の数字の各々の循環の順序と原子核を中心に廻転する電子の軌跡とが同じ様子だと聞かされると驚く。そして目には見えぬその作用を何となく理解することができるだろう。
洛書は魔方陣が揚子江の治水の際に現れた神亀の甲羅にこの図が発見されたという起源に因んでつけられた名称といわれている。広大な国土を治めるために天文治水に心を砕いていた古代中国の話だ。
魔方陣の縦、横、斜の各数の和が十五になるという摩訶不思議が雛飾りの様式にとり入れられたのは、江戸時代の後期と考えられる。江戸中期の奢多禁令を経て、座雛の形が小型を余儀なくされると、その見栄のために雛の数がふえ、調度も多種多彩となり、その飾り付けは拡がりを見せ、雛壇の定着、雛段数の増加があった事は容易に考えられる。明治の改暦以前の社会では、紀年月日は勿論、方角や時刻等々に干支があてられ、生活の隅々にまで及んでいた。また、徳川三代に仕え、その影響頗るだった天海僧上の天源術を始め、江戸幕府の為政にまつわる中国哲学思想の波及は、一般階層の魔方陣の魔訂不思議への理解が容易な土壌だったといえるだろう。
「にんぎょう日本」1992年3月号掲載

九星巡環

九星巡環

魔方陣は古代中国の天文観察 の中で生まれたといえるが、自然界に陰と陽の二元の気が充満して森羅万象をくり返し、止まないという考え方がその根幹をなしている。南北の線によって空間 を三分し、東西の線によってさらに空間を二分して四分し、その四分された空間をさらに三分し、その四正四隅を入方位とし、中央を加えて九方とする。中央に は大極天源の考え方があり、陰と陽の二元が相対して存在する考え方があって八方角に自然界の現象をあてはめて八卦が生まれた。相撲の行司が「はっけよい」 と、声をかけるのはそのことからきているそうだ。状態は十分だ、頑張れと力士に休みない格闘を促す掛け声と考えるが、力士が力強く方円の上俵を踏みならす ことで、神々に自然の季節の循環が順当にと祈願を促す呪いとしての意味もあるのかもしれない。
八方位に自然界の見たまま の現象をあてはめて考えた図に河図(かと)と呼ばれるものが洛書の以前に考えられており、これを先天方位という。また、九方に一瞬の間断ない自然界の変化 活動のきまりとして現象をあてはめたのが洛書、つまり魔方陣でありこれが後天方位とされる。後天方位は人がこの世に生を受けてから死ぬまで自然が作用する ものとされ、先天方位は人が母胎内にて受ける作用とされている。
魔方陣は九つの数字を九星 と呼んで人の星として考えられ、天象の活動作用を表すのはもちろんだが、人に作用し続ける変化活動の図とされている。九星の巡行は一界の循環が九年であ り、九ヶ月であり九日間であり、さらに時刻もそうである。九星にはそれぞれ一白水星、二黒土星、三碧木星、四緑木星、五黄土星、六白金星、七赤金星、八白 土星、九紫火星という名称がある。魔方陣に図示された位置が本位であり、その図盤上の各方位の方象のもつ意味が九星のおのおのの象意となり、図示された各 方位を循環する。つまり、一白は北、二黒は南西、三碧は東、四緑は南東の象意をもってのようにである。
中央は五黄であり、太極と され、各星が中央に回座した年が人の誕生の年にあたる。平成四年は八白が中央に巡るので、節分以降に生まれた赤ちゃんは、八白土星を本命星にもつ人として 一生を過ごすことになる。ここで注意を要するのは、五黄土星が中央太極を出て八方位に回座する八年そして八ヶ月の間、強い兇方作用が生ずる。つまり五黄が 中央に回座するとき人々の周囲に大兇方作用が及ばぬことになる。その図が本位図であり魔方陣となる。人々は魔方陣に生じる十五という数字に安泰を求め、自 然界の作用の魔詞不思議をひな段の信仰の呪術にかえたと思えるのである。
「にんぎょう日本」1992年4月号掲載

なぜ15人か?

なぜ15人か?

- 込められた心を考える -
なぜ15人か?
ひなだんという呼称は、雛段飾りからひとり旅をして、国会議事堂のひな壇や、さまざまな会議場お祭広場のひな壇であったり、構築物や事象の形容にも用いられて活躍。地についた日本語としてひとり歩きをしている。そのことを考えると、雛づくりにたづさわる者として肩身の広い思いがする。
そして、その仕事に自信を持ちたいものだと思う。
雛は日本国有のもので、世界に冠たる人形の文化として誇りを持ち続けながら仕事をしていきたいものだと思うのだ。かつて、米国の民族学者F・スタール博士はそのことに触れ、ついで日本人は誰もが雛と人形のちがいを知っている、と指摘されていたのは随分と昔になる。
心の時代が唱えられて久しいが、天竜寺の平田晴耕老師は、心を考える時代だとおっしゃる。今こそ長く受け継がれた雛をわが国固有の文化として捉え、祖先たちの注いだ心を知り、雛に込められる心を考える時代が到来しているといえるだろう。
ひなまつり、雛の節供の由来については、いろいろな解説がなされ、その発展の経緯に関し幾多の考証があって、ひとつ、雛学と呼んでもよいのかも知れないほどだ。しかし、ひなまつりの祭神にあたる雛段飾りが、かたちを整えて今日の発展を見た現在でも、そのかたちの主役というべき十五人揃の構成は、単につよい民俗信仰に支えられ、普及してきたと思われるだけで、そのはじまり、その人数の定着にふれた文献資料、その解明などは見当らない 人形史の流れのうちでいわば、盲点といってもよいだろうか。その数の根拠を訊かれて雛飾りに注がれた心を知って、その答えは用意されたい。
十五人揃雛段飾りには、すぐれた様式美があり、その構成にはひなまつりの完成された文化の香りさえある。正統派の雛飾りとして、雛人形にたづさわる者はあらためて認識を深め、自覚しなければ、ゆめゆめ業界の発展はゆるされまい。
すぐれものだけが時代を超えて残るのは真実だ。憶測が許されれば、十五人揃発祥に思いを寄せたい。
(次回は魔方陣の図にその答えの一つを求めて―)
「にんぎょう日本」1992年2月号掲載