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2013年1月23日 (水) > 平成25年1月23日 人気のゆるキャ・・・

2013年1月23日 (水) > 平成25年1月23日 人気のゆるキャラさのまる君が取材に来ました!

佐野ブランドキャラクターさのまる君が取材に来ました。

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菱餅の三重 雪のいざない

菱餅の三重 雪のいざない

大阪は新世界のシンボルになっている通天関の天辺てっぺんずっと以前から、つぶさにその様子を見物したかったが、なかなかその機会に恵まれぬ。昨年十一月、名古屋で会った大阪の赤瀬さんにそのことをお話ししたところ、お住まいが近くだそうで、さっそく夜空に映る通天閣の姿を撮ってお送りいただいた。
予報のサインは
ハレ  シロ
クモリ オレンヂ
アメ  ブルー
それぞれの色で天候が表示 されるのが、とてもユニークだが、大阪地方ではめったに降らぬと聞く雪の天侯に、予報では一体どんな色を用いるのか、興味がそそられる。それはハレの予報 に雪の色といえる白を使っているのと、実は雛の座のお供えものには欠かせぬ、菱餅に伝わる色づかいにことよせていたからである。
春は三月十二支では辰の 月、辰は水を表わし、自然界に水があふれて草木の生長を助け、動物の活動が促される月。和名での月の名は弥生。太陽暦ではほば四月と思えばよい。陽気に満 ちたこの月の上旬には雪の降ることもあって、人々を驚かす時候でもある。春分も通り過ぎて三春の区分では季春と呼び、現今では晩春とか暮春ともいわれる時 侯に当たる。殺伐とした話で恐れ入るが、史実として陰暦三月三日の降雪に桜田門外の変があり、雪の夜のできごととして名高い。
節のものを供えたことから、節供という言葉が生まれた。
菱餅の三重 雪のいざない
三月三日。 重三ちょうさん
三重の順序は、 一面の蓬草の上に雪が積もり、雪の大地には桃の咲く風情で、あかは桃の花の未来を知る吉祥、しろは純真清浄、あおは邪気を除ける象意が注がれ、三位一体の供え物とした。加えて菱の形は、足利将軍時代からの延命長寿を願う、歯固(はがた)はじめに触れた通天閣の天気予報の雪は、自身の色である白をハレにゆずり、奇想天外と思える桃色に点灯し、表示されるのは面白い。按ずるに菱台にのせ、雛壇に供えられる、三重の菱餅の色がさねに連想が働き、雪の上に散る桃の花を彷彿とさせるのは楽しい。
雪の色に桃色を選んだ予報の点灯の定まりには、きっと三重の菱餅とのないまぜが働いているに違いない。
2菱餅の三重 雪のいざないさて、菱餅をのせる菱台なるものが出はじめたのは、およそ寛政ごろ(約二百年前)という。折敷おしきいずれにしても、菱台という調度は雛壇のために生まれてきたものといえよう。
ちなみに雛具の扱いの上で、膳揃と呼ぶときは菱台、高坏、三方飾に膳椀を加えた組物を式正とし、三品揃は菱、高、三方揃とも呼んでいる。お供え用の雛具として雛壇、雛の座に欠かせぬいわれある故実の伝統は、崩したくないものである。
なお、文中の歯固めについては江戸期の「年中故事要言」に、「本朝の風俗には、元旦に餅鏡(もちいかがみ)を用いて歯固めといふなり。人は歯を以て命とする故に、歯といふ文字をよわひとも読むなり。歯固は齢を固むる意なり。また直に歯を固むる意にてもよし。」とある。
古俗に歯固めの供えといわれ、歯固めの供餅の儀礼にゆずり葉、歯朶(しだ)を共に供え、代々ゆずりの延寿をことほぎ、歯朶が歯固めにことよせた縁起は、節のもの(節供)の心が働いて、現代にも伝わっているといえる。 餅(もちい)はもちいいの促音と考える。

婚礼と雪洞(3)ひな壇の婚礼

婚礼と雪洞(3)ひな壇の婚礼

その昔、上巳の節句に、生児男女の区別なく祝いをしていた事実も伝わっている。
案ずるに、我が国の原始信仰に、人は誕生する時、肉体と共に霊魂を具えてくる。やがて、魂によって人の活動は促される。
結婚し、霊魂が結ばれることで、生命は生まれ、死によって魂が肉体から抜け出すと信じられていた。
懐胎から始まる人生の通過儀礼を考えると、人の誕生の一年は、実に厳格になされる。それは、魂のためになされるとさえいえよう。
七ツ前は”神の子”といわれるが、それは魂の未熟を意味するのかもしれない。
ひな祭りでは、女の子の魂や情緒と呼ばれるものの発育が促される。帯解きの祝いをするころには、難しい知識を正しく吸収でき反応できる社会人としての仲間入り(氏子うじこ入り)の素地ができあがる。情緒も安定し、”キレる子”など考えられない。
- 新生児一人に一飾リ -
さて、現代の初節旬では、祖母や母親や姉たちのおひな様を飾って祝うことに懸念がもたれているが、ひな祭りに寄せる本来の観念からいえば、お祝いする女の子の婚姻への願いは無視されることになるわけだから、”私のおひな様”、 つまり身祝いとしての各児一飾りの是非は、いうまでもない。
誕生した女の子の初節句から、年毎のひな祭りを重ねるなかで、やがて、”私のおひな様”という想いが芽生え、強く意識される。、その想いは、日本人女性の誰もが経験することで、昔から脈々と続いてきている。そして女の子の一生を通して、”私のおひな様”にいろいろな思い出や出来事も封じ込められることになる。
(3)ひな壇の婚礼
- 雪洞は華燭の典の象徴 -
循環する四季の十二支の陰と陽(図解参照)。
春 少陽 一月(寅)、二月(卯)、三月(辰)
夏 老陽 四月(巳)、五月(午)、六月(未)
秋 少陰 七月(申)、八月(酉)、九月(戊)
冬 老陰 十月(亥)、十一月(子)、十二月(丑)
十二支を演出したと考えたい六曲一隻の金扉風の前、おだいり様とおひな様は、日月の暈かさね紋様・繧繝錦縁うんげんにしきべりの畳をのせた浜床台に座る。
その一対の台の間には、伊邪那岐いざなぎ・伊邪那美命いざなみのみこと二神に供え、御酒が瓶子へいし一対で三方に飾られる。これは結婚した夫婦とその家族や親族の絆を結ぶ陰と陽の神酒でもある。
両側に侍る官女は、長柄の銚子、右側は提子ひさげを持ち、中央は盃か蓬莱の島台を運ぶ姿で、華燭の典・式三献ひきさんこんの儀の模様を表している。そして雪洞は、華燭の典での夜陰の灯りを象徴したものといえよう。
天(あま)の御柱みはしらを男神が左廻り、女神が右廻りをして美斗みとのまぐあいがある日本創世の神話に倣い、左の瓶子に雄喋おちょう、右の瓶子に雌喋めちょうの喋花形を飾る。
二神に供えられた神酒は、まず雌喋の瓶子から提子に移し、次に雄蝶の瓶子の神酒をその上に注ぐ。さらに提子の神酒は、長柄の銚子に移され、盃に注ぐ。
本来、両側の官女は神に仕える巫女みこの姿で、未婚の女性のため眉があり、左の官女は口を開き、右の官女は口を結んでいる。
中央の官女は待上臈まちじょうろうと呼ぶ年功を積んだ女性で、袿うちきを着て、眉がなく口を開けていのる。この女性は婚礼を司会し、祝詞のりとの口上を述べ、式三献の儀を進行させる。
婚礼では、提子に雌喋、銚子には雄喋の蝶花形が飾り付けられるが、瓶子一対を入れて四丁しちょうを忌み、菱飾りがつく形式もある。
宴席を同じ盃が一巡すると一献であり、廻る盃で一回(ひと口)飲むことを一度という。 一献の盃を三度に飲んで三献を重ねるので、三々九度の盃である。
古代中国では、祝宴の席に人を迎える最高の礼が、九献であった。日本に渡りいつのころから、九献が三々九度の盃に転じたのであろうか定かではない。
ひな壇に嫁入り道具が並ぶ姿のひな祭りでは、初節句にはすでに次の次の世代の誕生をも願う心が込められているのだ。

婚礼と雪洞(2)ひな祭りに託された願い

婚礼と雪洞(2)ひな祭りに託された願い

さて、婚礼の刻限を確認できるものに、二代将軍秀忠のむすめ東福門院和子のお嫁入りの記述がある。和子は女御にょうごとして元和六年(一六二〇)入内じゅだいしているが、午うまの刻(午前十一時~午後一時)に二条城を出立する流れの中で、和子の牛車は一つ刻ときを要して、御所郁芳いうほう門より新造の女御御殿には未ひつじの刻(午後一時~三時)に到着。そこで休むこと数刻。亥い刻(午後九時~十一時)清涼殿に赴き、後水尾天皇と初めて対面し、次いで常つね御殿に渡り、三献の儀式が行われている(「女御々入内記」より)。
古法に従った事録に接すると、亥の刻限、亥の月、神無月の婚礼、さらに華燭の典という辞ことばの由来にも想いが及ぶ。
桃の節句。町雛として盛んな拡がりを見せたひな壇の最上段には雪洞が灯る。宵闇の暗がりにほんのりと浮かぶ男女一対の内裏雛。二段目に三人官女が控える姿は、ひな祭りとして日本人の誰からも愛されてきているが、実は婚礼の絵巻でもあった。初節句を迎える女の子のために、おだいり様。おひな様と称よんで飾られる男女一対の内裏雛の姿には、やがては健やかに成人して、おだいり様のような素敵な男性に出会い、文字どおり三国一の花婿に恵まれるよう、そして豊かな結婚生活がかなうようにとの願いが込められている。
つまり、初節句を迎えた女の子の形代(かあしろ、身代わり)とされるおひな様にとって、おだいり様は″赤い糸で結ばれている″将来の夫となる男性の理想像をないまぜにしている。
(2)ひな祭りに託された願い
いずれにしても、ひな祭りでは初節句を経た女の子の身祝いとして、年毎の節句の度にひな人形に託して一年無病息災であることへの願いが込められてきた。
人はよく、赤ちゃんには親を選んで生まれてくることができないというが、女の子が胎内で出遭った祖先の穢けがれ、遠い原始の祖先たちの畏おそれを知らず知らずに受け継いできていることヘの修祓しゅうばつの願いも、込められていたと考えられる。
お祝いする女の子の成人に寄せた婚姻の願望が強く働いて、その予祝を重ねるなど、生命を宿す力のある女性の成長に対する両親、祖父母の思いはひな祭りに多くの願いを寄せている。
もともとひな祭りは上巳の節句に包含される。五節句の上巳の節句は中国から流入したものだが、我が国では古くから巳の日の祓の思想が原点にあって、ひな祭りの祝いがなされてきた。
巳とは蛇であり、冬眠から覚め、自然界に水が溢れてくる季節、蛇は自身の身体を脱皮して成長する。
祖先たちはその姿の神秘を身殺みそぎとして感じ、災厄や穢れを我が身からそぎ落として、無病息災や清浄な心身を祈願してきた。ひな祭りの祝いが年中行事として行われるのも、蛇の脱皮擬もどきといえよう。
(次号に続く)
「にんぎょう日本」2000年2月号掲載

婚礼と雪洞(1)赤い糸で結ばれている私のおひなさま

婚礼と雪洞(1)赤い糸で結ばれている私のおひなさま

十月は陰暦では和名を神無月とよび、十二支で数えると亥い(猪)の月とよんだ。
国中の神々は出雲の国に集まり、出雲以外の各地の神様の社やしろは、神不在の月にあたる。
それゆえ、神前での婚礼は無意味なものではと思えるのに、十月は婚礼のシーズンとされ、
婚礼の知らせもこの月に重なりやすい。なぜなのか。そこには神無月の神不在を俗説として
寄せつけぬほどの何かがあるのだろうか、興味をそそられる。
そのことはさておき、婚礼の歴史を知るうえで、面白い記述がある。
「婚礼は夜する物也。されば古法婚礼の時、門外にてかゞり火をたく事、上臈(じょうろう)
脂燭(しそく)をとぼして迎に出る事旧記にある也。男は陽也、女は陰也。昼は陽也、夜は陰也。
女を迎うる祝儀なる故、夜を用ル也。唐にても婚礼は夜也。されば婚の字は女へんに昏の字を書也。
昏は(くらし)とよみて日ぐれの事也。
今大名などの婚礼専ら午の中刻などを用る事、古法にそむきたる事也」。
江戸期の『貞丈雑記』にある考峯で、祖先たちが婚礼にどう臨んでいたのかが分かる。ここで大切なことは、自然界の時の流れであろう。陰と陽の二元に対する思い入れである。
一日に昼と夜の陰陽があるように、四季一年にも陰の季節と陽の季節の循環があり、その区分がなされる。
月日や時刻まで十二支の数詞でよんだ昔、十月は亥い(猪)の月にあたる。陰暦での十月は、冬至がまわってくる子ね(鼠)の月を前に、一年では一番日脚が短く、夜長の時期。夜の陰の深まりが四季を通じて最も強く感じられる月であり、十二支最後の亥の月になっている。
冬至を境にして日脚は少しずつ伸びる。陰極まれば陽に転ずるたとえの通りに、亥の月には冬至を前にして一陽来福という明るい伸展への願いがあったに違いない。冬の寒さを表したものに、「冬至、冬なか、冬はじめ」という気象用言があるが、亥の月に立冬があり、子の月に冬至が、丑うしの月に冬の了おわりが告げられ、寅とらの月は(旧)正月。春がやってくるのに、寒さが続く。
一日十二刻を十二支でよぶときにも、今日一日の了おわりと明日の一日の一はじめを意味した子の刻は真夜中で、夜の陰が深く、季節の冬至と同様、夜明け前の寅の刻まで夜陰が続く。ありていに申せば、四季の陰陽、昼夜一日の陰陽の区分を感じとり読み取るのは、平成の私たちにとって努力を要する。
(次号に続く)
「にんぎょう日本」2000年1月号掲載

地蔵の剃髪童顔

地蔵の剃髪童顔

東大寺大仏殿の真ん前の中庭に、唯一創建当時のものとされ、天平時代の優れた文化を今に伝える金銅燈篭がたっている。
この燈篭のレリーフの美しい音声おんじょう菩薩は、童顔の姿である。盧庶那仏るしゃなぶつの正面に立つ灯りは、仏への観想の世界による配置と思われるが、私にとっては五人囃子の童児形を考える嚆矢となった。
本尊に対する声明しょうみょうの流れ、そして童顔の菩薩の姿は、対雛と五人囃子の配列を彷彿とさせる。
五人囃子の子どもの姿の果たす役割に想いを巡らすと、私たちの身近には、日本人の誰もが知っている地蔵菩薩の姿があるのに気づくだろう。
菩薩像は儀軌によって頭に宝髻ほうけいを結い、宝冠を戴き、体には瓔珞ようらく、首飾り、臂釧ひせん、腕釧わんせんそして足釧をつけ、天衣てんね、 条はく、もすそ(裳)をまとう姿が常だが、大地の慈愛の顕現とされる地蔵菩薩だけは剃髪童顔、そして衲衣のういの姿で人々の信仰をあつめている。お地蔵様と呼ばれ童謡や俚謡にうたわれ、最も親しみの深い仏といえる。
地蔵の功徳はこの世に止まらず、あの世にあっても救いの手をさしのべ、現世来世に及んで人々の魂を救ってくれる。賽さいの河原の造塔功徳をうたった地蔵和讃など、親に先立つ子どもの哀れが、聞くものの心を揺さぶり涙を誘う。子どもの守り本尊とする地蔵信仰の定着も、子どもの命への親の思いの深さによるものといえる。
さて、人の一生についてこの世に生を享けた、つまり懐胎がなされたときを生有、生存の間を本有、死期を死有と呼ぶ。また、現世から来世へと次の世に生まれ代わる七七、四十九日をさして中有と呼んで、その世界では魂魄がさまようとされるが、故人の霊魂を救い、浄土へ導くとされる仏が地蔵だ。ことに親に先立って迷い悲しむ子どもの魂を救ってくれる仏ということで、人々の祈願は絶えることがない。
そのためか、地蔵の縁日は毎月二十四日だが、盆の二十四日に行う地蔵供養は、地蔵盆と呼んでいまも子どもたちの手で行われてきている。
お地蔵様と呼んで親しみの深い地蔵信仰は、宗教を離れて強い民間信仰として生きている。頭を丸めた姿の地蔵の童顔の姿は、五人囃子の童児形を考える際、見逃すことが出来ない。
五人囃子の童児形については、幼児の無心の姿を最先に考えてみた。その無心とは清浄ということばに置き換えられようか。五人のお囃子には幼児の清らかさが望まれたのである。清浄こそ、人の霊魂の姿ということが出来る。
(つづく)
「にんぎょう日本」1993年1月号掲載

かくされた童男の理

かくされた童男の理

一から九までの数が、縦横斜め何れからもその和を十五にする魔方陣は、自然界の生命エネルギーの
運行作用を示す洛書の図であることは以前にふれた。九つの数はそれぞれに色彩名が割り当てられ、
人の星ともされて九星と呼ばれる。目には見えぬ時間や空間、つまり季節や年月時刻、そして中心や
各方を陰と陽二元の原理に基づいてその数を配分し、各々の数に天地間の現象を置き換え、綿密な天文観祭を経てその一つ一つに象意が見出されている。これが洛書に示されて八卦と呼ばれる。
「乾は天なり故に父とす」「坤は地なり故に母とす」というように、八卦は人間関係に置きかえ、
さらに「乾坤に六子あり」Lして三男三女がそれぞれ位置され、少男つまり童児は洛書九星図の
八白に象徴されている。
九星のそれぞれに、さらに十二支が配当され、八白の位置は、丑寅うしとら方角で北東、時刻の丑寅はおよそ午前一時から三時、年前三時から五時をさし、丑の月は旧暦の十二月、寅の月は旧暦の正月をさす。
季節に当てると、丑は冬の強い寒気であり、寅は春への移行の時に当たり、八白には変化宮つまり陰極まって陽に転ずる進展の象意を見ることができる。
さて、十二支は本来植物の発生・繁茂そして伏蔵という循環の様子を示したもので、植物が種から始まって実を結び、新しい種を宿す状態を表わす。子は完了と一はじめを意味する種子の状態、丑は種子内で紐状に変化する様子、寅はうご(虫へんに寅)めくで地上への発芽の時とされる。
一日の時間の流れの中では、草木も眠る丑満どき夜の闇が極まって暁に変わる刻限が寅の刻、人間の一生に見立てると母の胎内の暗黒から分娩があり生命の誕生。そして心身ともにめざましい発育を見るこの時期は童児の姿に象徴され、陰の極まりから陽への進展を司る姿として位置づけられている。
十五人の揃雛の中で五人囃子にのみ童児形が用意されたのは、八白の象意によるものといえる。初節句には生命誕生の謳歌、成人ヘの予祝、女児の心身の新生成長進展を節句ごとにはやす。そうした役割にかくされた理は八白童男の象意であり、明治の改暦以前千余年にわたって我が国の人々の生活の隅々まで浸透した十干十二支九星など、陰陽思想の哲理だともいえる。
いろいろな祭によせる人々の心は、その祭の行事のあり方もさることながら、祭にかくされた理でもある。理を求めずしてひなまつりの本来は、やがて失われるときが待っていよう。
完成された形のひなづくりによせた何代にもわたる先輩たちの苦心や智恵は今でも生きている。現在その仕事にたずさわる私たちが、単なる商品と同様の製販にあたるのは、祭具としての雛本来の伝統の崩壊につながる危倶の念にかられてならない。
「にんぎょう日本」1993年2月号掲載

成長への儀礼

成長への儀礼

生旺墓の理によってみる と、誕生から成人までの期間は、生まれる、つまり”生”の部分に当たる。肉体の成長と共に生霊の増殖する養育期であり、受胎あってから帯祝・産褥見舞・命 名式・宮参り・食初めなど、誕生にまつわる儀礼があり、初節供が終わると現在の七五三に相当する髪置(かみおき)、つまり髪の伸ばしはじめを祝う儀礼が行 われた。男女とも、三歳の陰暦十一月十五日に菅糸でつくった白髪をかぶらせるというものだ。
また、三歳から五歳の間に髪の先を肩までの長さで切りそろえる儀礼があり、陰暦十一月十五日碁盤の上に子供を吉方に向けて立たせ、仮親(その子にとって信頼できる他人になって貰う)が盆の上に切り落とされた子供の毛に少し鋏を入れ、川へ流す深枇ふかそぎの儀礼がなされる。
男子は五歳から九歳までの間に、女子は七歳の十一月の吉日に帯直おびなおし(帯解き)の礼をする。小袖の付紐を取り除き、紐のない小袖に帯を結ぶ儀式をする。男子の元服は幼名をやめ、烏帽子をつけ成人の服を着、髪を結い冠をかぶる儀式で十二歳から十六歳位までの間に行われたが、江戸時代の武家は男子十七歳霜月十五日に初冠(成人式)を行って男髷に改め、幼名を成人としての実名(烏帽子名)に改めて元服がなされた。
女子の成女式は鬢枇びんそぎといい、十四歳から十六歳までの間の六月十六日に鬢の先を切る。鬢先を切る役を鬢親といい、碁盤の上に吉方に向かって立たせて鬢を切り、生年月日と名前を書いた紙を川に流す。式が終わると鉄漿おはぐろをつけ、眉作りをして大人の姿になり、式三献を行った後、祝宴が催された。
男女とも成人の式が済むと、肉体も生霊も完成され、活動期”旺”に入り、旺んに活躍することになる。そして男女の霊魂が結ばれる。因みに、大宝令制では男十五歳女十三歳で結婚が認められている。
このように衣裳と共に髪形かたちは社会秩序の上で重きがおかれた。成人後の髪型,髪結の形にはいろいろな約束が込められ、身分・年齢・職業など男女ともその分類は多岐にわたった。そんな中で幼児は埒らちの外におかれ、幼児期の髪形には自由さがあったといえる。
五人囃子の童児の髪形は、その自由さを象徴したものといえる。江戸期以前の文化の移入は中国からの影響がほとんどといえる中で、唐児からこの髪形には雛ひいな本来の可愛さ、あいくるしさを認め、幼児の髪形へのあそび心や楽しさを求めたといえる。それは往時のハイカラ指向のあらわれかも知れぬ。唐児からくり人形に伝わるようにその姿には軽業を彷彿させる身軽さを認め、無事成長のための子供らしさ、活発さを五人囃子の生やす意味に込めたものといえようか。
「にんぎょう日本」1992年12月号掲載

五人囃子の童児形

五人囃子の童児形

幼い子がしゃがんで遊んでいる。声をかけても振り向こうともしない。顔が汚れ、着ているものが泥んこになっているのに頓着がない。時間の経つことなど毛頭気にならない。こんなあどけない姿こそ三昧の境地なのだという。
昔から中国では十才を幼、二十才を弱、二十才を壮、四十才を強、五十才を艾がい、それ以上は十才ごとに耆き、耄もう、たい背たいはい(たいという字は魚へんに台)というふうに呼んでいる。また七才は悼とう、五才は童どう、三才は孩がいということで各年代の呼称にそれぞれ想いがあった。そして悼と耄は、罪があっても刑を科すことがない、つまり幼児と老人は社会の外において見守ったという。
いずれにしても幼児のあどけない無心のしぐさ、童心といえばその純真さ故に誰も憎めないし、むしろ尊いと思う。
親王対雛を主役と考え、雛十五人揃の構成の中、組雛として欠かすことのできなかった五人囃子だけは、どうして童顔が用意されたのか、単に雛まつりの希い本願を、可愛い我が子の形代かたしろでもある対雛に穢けがれない幼な子の姿でうたい上げるためのものだったのだろうか。男女対雛を最上段に、三人官女がすぐ下の段、三段目に五人囃子、四段目は随身、五段目に供仕丁で十五人の雛は陳列されるが、五人囃子の組雛だけは唐子からこの童顔が用いられ、他の雛たちには成人した顔立ち、髪形の頭(しょう顔)が用いられてきた。
五人の童頭は向かって左からどんずりに結ひ上げの鬢びん、大きく口を結んだ太鼓、髪がワンカ、やっこ鬢びんはり、口開きの形が大鼓おおかわ、どんずりに前下げ髪、長い下げ結びの鬢びん、ちょぼ口が中央に位置して小鼓つづみ、どんずりに長く下げ結びの鬢びん吹きよせ唇の笛、カムロの髪型で口開きが謡うたい。こうした一連の形でより広く使用され、昭和三十年頃までその形式は続いた。そしてその姿は当時はごく当然に扱われた。
またその当時までは、親王、官女、五人囃子、随身、仕丁はそれぞれ組雛として桐箱や前硝子の飾り箱などに入れて販売され、御殿飾りや雛段飾りが十五人揃になるのを前提に自由で縦横な販売がなされた。
やがて店頭での販売に、十五人揃の雛段飾りと飾り段用九品の雛具でのセット化販売の規格が拡がると、業界の隆盛期を迎えるが、従来の生産では間に合わず、他聞にもれず、五人囃子雛頭もワンカにやっこ鬢びんはり、つまり大鼓おおかわの型だけで五人一律の略式形がとられるようになった。十五人それぞれの頭を用いた本来の伝統は少し消え失せるかのような流れで現在に至っている(結髪・面相については頭師としても長老である鈴木柳蔵、石川潤平両氏にその確認を仰いだ)。
(つづく)
「にんぎょう日本」1992年11月号掲載

対雛と五人囃子

対雛と五人囃子

江戸時代の半ばを過ぎると、 雛飾りに対雛と五人囃子、そして雛道具は飾り方の組み合わせとして絶対的という観念が強く流れるようになった。時を経て昨今、雛段飾りの簡略化された形 は、対雛に三人官女を加えて五人飾り、さらに随身を飾って七人飾りといった風だが、明らかに女児の無事成長を祝う呪術としての意味合いは薄れてしまってい るといえる。
宝暦九年に江戸では京雛の移入が禁止されるが、幕府の為政の故もあって宝暦以降は江戸文化の権立期とされる。その頃が現今の座雛の完成期ということができる。古今雛(こきんびな)雛づくりの仕事上では特に 五人囃子に想いをひかれる。そこには座雛の雛飾りの構成の本来があるからだ。宇宙を構成する五大五行(五気)のもとで五季の気候は春、夏、秋、冬、土用で あり、目で見る五色は青、赤、白、黒、黄であり、天地間の生類は霊長たる人間、獣、禽、虫、魚を指す。人間には五体(頭、両手、両足)、五臓(漢方でいう 肝、心、脾、肺、腎)、五指、五感(視、聴、味、嗅、触覚)、五欲(財、色、食、名誉、睡眠)があり、口で知る五味(甘、酸、辛、苦、塩辛い)、耳で聞く 五音(あいうえお)もまた″五″に関わる。人間の踏む道にも仁、義、礼、智、信の五常の道があるといった往時の観念が込められて、五人囃子は必ず対雛と共 に飾られた。
五という極致は天地が創造 し自然のものすべて五つで大極そのものの現れだと考えられた。関東風の雛で五人囃子の立袴(小鼓、羯鼓(かっこ))には踏み出し、踏み込みの伝統がある。 十五人揃の中では歌舞伎の様式である六方を踏む態(さま)を入れて、唯一カの入った動態で運気の消長を示したといえるだろう。
文化十年、江戸・中村座で の上演に古今雛が取材されている芝居絵には、当時の歌舞伎の影響がしのばれる。古いところでは、鶏の故事がある。古事記に天照大神が天の岩屋戸に隠れた 時、常世(とこよ)の長鳴き鳥として鶏が記されている。天宇受女命(あめのうずめのみこと)が空桶を踏みならし、鶏を集めて鳴かす。日本では鶏は夜明けを 告げるために飼われ、最も親しみが深い一番(丑の刻二時)二番(寅の刻四時)三番鶏(卯の刻)の鳴き声で時を知る風習があった。皇祖天照大神を主祭神とす る伊勢神宮の神使は、天の岩屋戸の故事により、鶏になっている。鶏には五つの徳があり、五羽を画いて吉祥とされる。夫婦と子供三人の組み合わせは家族の理 想とされ、古来わが国では早朝の清浄を尊び、鶏の鳴き声は「東天紅」とされ、太陽を迎えるところから一日の家内安全も含めてその吉祥が表現される。天宇受 女命は里神楽ではおかめであり、 火男(ひょっとこ、猿田毘古神)と向かい合って踊る。天宇受女命は大嘗祭や鎮魂祭に仕えて舞の始祖とされ、芸能、神楽の祖神とされている。五人囃子には五 つの数に連ることどもを踏まえて、誕生したわが子のつつがない成長、幸せな結婚をという、対雛へ託された親の希いを対雛に促す力が与えられ、可愛いわが子 の人生の幕開きの役も務める。対雛と五人囃子は誕生した女児の未来の幸せな家庭への予祝の形であり文字通りお囃しといえ生命の躍動、歓喜、奉納舞楽のすが たが見えかくれする。
「にんぎょう日本」1992年6月号掲載

五が十五を生む

五が十五を生む

森羅万象、あらゆるものは生 まれると成長を重ね発達をし、やがて旺んに活動し、最後は消滅し死に至る。これは動かすことのできぬ哲理で、生・旺・墓の語であらわされる。仏教の世界で いう三界の法も、親があり自分があり未来は子であるということも、三才とよばれる。過去・現在・未来という永遠の流れも生・旺・墓の繰り返しといえる。台 風が発生し、次第に発達しながら大暴れをするが、やがてどこかで温帯低気圧に変化し消滅する。毎日の生活には夜明けが、そして日の出があり、日中があり、 夕暮れ、日没があって、朝昼晩、つまり生・旺・墓となる。
九星にみる九気の変化活動 の流れの中で、本位図にあたるのが魔方陣であり、洛書と呼ばれるが、それは各星(気)のもつ本来の方位であり、各方位にはそれぞれ象意があることは前にも 述べた。五黄はその中で中央太極に位置して、生・旺・墓をそして変化活動の栄枯盛衰をつかさどる帝王の星とされる。前号の九星の巡行循環の中で、本位図の 位置を五黄土星が出て各方位に回座すると、この星の廻った方位が世にいう五黄殺の方位でその方位と中央を経て対する方位が暗剣殺の方位となる。本来土気の もつ生物を育む性質と共にあらゆる生命体を腐敗させてしまう力、つまり生殺与奪の力を恐れて大兇方位とされ、人々に忌避されている。このことは方ふさが り、方たがえなどの辞で源氏物語や他の古典に見られる。飛鳥時代に大陸文化が渡来して以来、千年以上にわたって我国の為政の中心はもちろん、兵術にも駆使 されてきたのは、歴史の示すところである。本位図つまり魔方陣は、四方八方に大兇方位のない安定の時であり、魔方陣に生まれる十五の数の神秘をひな祭の呪 術として用いたのであろう。
十五人の考えが誕生した本位図の中で、四は巽(そん)何れにせよ男女とも九星図 の中央の時、この世に生を受け、二回目の中央に来る時成人し活動期に入り、生・旺の旺の部が始まる。特に女性には生命を生み出す力がある。子孫を絶やさぬ という自然界の摂理を大切にする心がはたらいて女児の節供は良縁を得る。やがては母体になるための無事成長の願いが特に強いといえる気がする。陰暦で四月 は巳の月である。巳の月をはさんで辰の月に上巳の節供があり、午の月に端午の節供があるが、巳は自然界では蛇であり、蛇が長い冬眠からさめ、脱皮をして成 長する神秘に信仰が生まれ、五節供の儀礼と習合し、我国固有の節供文化に発展してきたと思える。毎年の節供には蛇の脱皮の擬(もど)きの意味があり、禊は 水注ぎで身殺ぎ(脱皮)の意味があると思える。
十干十二支九星などが盛んに用いられた時代を経てひなまつりは発展してきた。これをふまえず節供の意義をただすことはできまい。
「にんぎょう日本」1992年5月号掲載