情緒を育てる大人への通過儀礼-雛人形に込められた願い2-

情緒を育てる大人への通過儀礼-雛人形に込められた願い2-

お腹の中にいるとき、親子の体と魂はつながっているといいます。子どもは胎内で、祖先の穢れ、遠い原始の祖先たちの畏れと出遭い、そんな知らず知らずに受け継いできている穢れを祓い清めるという願いも、初節句には込められているのでしょう。

 

このように、節句というのは魂の健やかな成長も促します。健康や見た目のことだけではないのです。ですからひな祭りでも、女の子の「魂」や「情緒」と呼ばれるものの発育が促されるのです。

 

古来日本では、懐胎(妊娠)をはじまりに、いろいろな成長の通過儀礼が行われてきました。とくに人の誕生から一年目は魂の成長にとって大切な時期なので、儀礼も厳格に行われます。

七つ前は”神の子”といわれるのは、まだ魂が未熟で変化しやすいというのを意味するのかもしれません。

 

懐妊

 

今はお母さんのお腹から出てきたら「誕生した」と言いますが、以前の日本では胎内にいる時点で命を授かった、つまり生まれたと考えました。そのため赤ちゃんの受胎があると、5ヶ月目の戌の日を選んでお腹に腹帯を巻いてお祝いしました。「帯祝い」と呼ばれるものです。

成長の通過儀礼は誕生(胎内)からはじまり、幼児期を経て、男女に分かれて成人するまで行われます。

 

昔は男子は5歳から9歳までの間に、女子は7歳の11月の吉日に、幼児期が終わる帯解きの祝いをしました。そこからは幼児としての扱いは終わります。難しい知識を正しく吸収でき、反応できる「社会人」としての仲間入り(氏子入り)の人格が、もうできあがったと見なされるのです。

 

儀礼のたびに、子どもは自分が少しずつ大人になっていくことを自覚し、やがて成人の式が済むまでには、肉体も生霊も完成されて一人の大人となります。

今のような”キレる子”というのは考えられず、10歳前後でも情緒も安定した人間として扱われました。

 

お雛さまの人形の中にも、心の成長段階が表現されています。成長を促す童子の顔・格好をした五人囃子や、若手(泣)・中堅(怒)・老人(笑)の3人が並ぶ仕丁。

これらの人形の意味は、大人になってやっと実感できるもの多いかもしれません。ですが、ものを大切にして毎年きちんと並べながら、お雛様に込められた願いを少しずつ教えてあげてください。そういった一つ一つが、お子様の情緒を育ててくれることと思います。

良い人と出会い、結婚できますように -雛人形に込められた願い3-

良い人と出会い、結婚できますように -雛人形に込められた願い3-

ひな壇は、昔の宮中の結婚式の様子を元にしています。この婚礼が、夜に行われているのはご存知でしょうか。

古法に従った結婚式は、亥の刻限(午後9~11時ごろ)、亥の月・神無月(旧暦10月ごろ)に行われました。華やかな結婚式のことを祝って言う「華燭の典(かいしょくのてん)」の言葉の由来も、夜に雪洞(ぼんぼり)に明かりを灯し祝った結婚式から来ています。

 

お嫁入り

 

江戸時代の「女御々入内記」の中に、二代将軍秀忠の娘、東福門院和子のお嫁入りの様子が書かれています。

和子は女御として元和六年(1620年)に入内(じゅだい)しました。婚礼の儀が行われた日、午の刻(午前11時~午後1時)に二条城を出発した和子の牛車は、一刻ほどの時間をかけてすすみ、御所郁芳門から新造された女御御殿には未の刻(午後1時~3時)に到着しました。そこで休むこと数刻(数時間)。亥刻(午後9時~11時)清涼殿に赴き、後水尾天皇と初めて対面し、そのまま常御殿に渡り、三献の儀式が行われています。

 

昔の結婚式が時間を考えて行われたのは、陰陽の考え方から来ています。「陰の女性」が「陽の男性」により良い形で嫁ぐことができるように、陰の時間である夜にいく。

その古来のよく考えられた方法で、ひな壇の結婚式も執り行われているのです。そこには「良い人と結婚ができますように」という願いが込められています。

次の次の世代の誕生への願い -雛人形に込められた願い4 -

次の次の世代の誕生への願い -雛人形に込められた願い4 –

結婚式というのは、たんに男女が結ばれるだけのお祝いではなく、次の世代の誕生を祈り、促すための意味もこめられています。

その昔、日本での原始信仰では、人は誕生する時、肉体と共に霊魂を具えてくると考えました。人は肉体だけでは生きられず、活動するには魂が不可欠とされていたのです。

婚礼の儀によって男女の霊魂が結ばれると次の生命が生まれ、死によって魂が肉体から抜け出すと信じられていました。

そうすると、ひな壇の結婚式というのは良縁の願いに加え、「次の世代に恵まれますように」という祈りも込められていると言えます。

 

次の次の世代

 

ひな壇の中には、日本創生神話にある伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美命(いざなみのみこと)の男女の神にまつわる品々や儀式がこめられています。

例えば三人官女は、婚礼の儀の進行役です。左右の女性は巫女姿で神酒を注ぎ、中央の女性は婚礼の儀の司会進行を務め、祝詞の口上を述べます。

 

現代の結婚式は「男女の愛を誓う」という形が多いようですが、もともと神社で行われている婚礼の儀の様式は、生命(子ども)の誕生にまつわる神様に祈るものなのです。

 

結婚式の形をとっている初節句には、すでに次の次の世代の誕生をも願う心がこめられているのです。

一人に一つずつの「私のおひな様」 -雛人形に込められた願い5 -

一人に一つずつの「私のおひな様」 -雛人形に込められた願い5 –

さて、現代の初節句では、祖母や母親、お姉さんたちのおひな様を飾って祝うという方もいらっしゃいます。

前述したように、おひな様にはお祝いする女の子の「結婚への願い」がこめられています。おひな様はその女の子自身です。一人のおひな様の旦那様は当然、理想としては一人であって欲しい。

その子の一生の幸せを託すものですから、”私のおひな様”、 つまり身祝いとしては、一人一飾りとして欲しいと思います。

 

お雛様

 

誕生した女の子の初節句から、年毎のひな祭りを重ねるなかで、やがて、”私のおひな様”という想いが芽生え、強く意識されるでしょう。

その想いは、日本人女性の誰もが経験することで、昔から脈々と続いてきているものです。そして女の子の一生を通して、”私のおひな様”にはいろいろな思い出や出来事を込められていのです。

雛人形  菱餅の三重 雪のいざない 

雛人形  菱餅の三重 雪のいざない 

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 大阪は新世界のシンボルになっている通天関の天辺(てっぺん)には、お供餅のようにも映る、天気予報のネオンが点灯している。
 ずっと以前から、つぶさにその様子を見物したかったが、なかなかその機会に恵まれぬ。昨年十一月、名古屋で会った大阪の赤瀬さんにそのことをお話ししたところ、お住まいが近くだそうで、さっそく夜空に映る通天閣の姿を撮ってお送りいただいた。
予報のサインは
ハレ  シロ
クモリ オレンヂ
アメ  ブルー
 それぞれの色で天候が表示されるのが、とてもユニークだが、大阪地方ではめったに降らぬと聞く雪の天侯に、予報では一体どんな色を用いるのか、興味がそそられる。それはハレの予報に雪の色といえる白を使っているのと、実は雛の座のお供えものには欠かせぬ、菱餅に伝わる色づかいにことよせていたからである。
 春は三月十二支では辰の月、辰は水を表わし、自然界に水があふれて草木の生長を助け、動物の活動が促される月。和名での月の名は弥生。太陽暦ではほば四月と思えばよい。陽気に満ちたこの月の上旬には雪の降ることもあって、人々を驚かす時候でもある。春分も通り過ぎて三春の区分では季春と呼び、現今では晩春とか暮春ともいわれる時侯に当たる。殺伐とした話で恐れ入るが、史実として陰暦三月三日の降雪に桜田門外の変があり、雪の夜のできごととして名高い。
 節のものを供えたことから、節供という言葉が生まれた。
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 三月三日。 重三(ちょうさん)の吉祥も込められた雛祭の節日には、必ず桃の花枝が雛の座に供えられ、古い昔には、婦女の共に全(まった)からんの願いから、母子草(ははこぐさ)も蒸して用いた菱餅。のちには中国からの竜舌(りょうぜつ)ばんの古俗や蓬莱の吉祥、薬効も手伝い、その緑が邪気を祓う草とされる蓬(よもぎ)を用いた菱餅が、あか(桃)、しろ、あお(緑)の三つ重ねにして供えられた。
 三重の順序は、 一面の蓬草の上に雪が積もり、雪の大地には桃の咲く風情で、あかは桃の花の未来を知る吉祥、しろは純真清浄、あおは邪気を除ける象意が注がれ、三位一体の供え物とした。加えて菱の形は、足利将軍時代からの延命長寿を願う、歯固(はがた)めの儀式の供え台に並んだ菱形の餅にならってつくられたと考えられ、季節を謳った。三重の菱餅は、雛祭を代表する供えものとされてきている。
 はじめに触れた通天閣の天気予報の雪は、自身の色である白をハレにゆずり、奇想天外と思える桃色に点灯し、表示されるのは面白い。按ずるに菱台にのせ、雛壇に供えられる、三重の菱餅の色がさねに連想が働き、雪の上に散る桃の花を彷彿とさせるのは楽しい。
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雛人形 松風と高砂

雛人形 松風と高砂

 松のとれる正月、横浜能楽堂で謡曲の「高砂」が、 一堂に会した舞台と寄席の人たちによって合謡され、その模様は謡初の催しとして、恒例の年中行事への積み重ねがテレビで紹介された。近年とみに各地で盛んになりつつある「年末の第九の合唱に対峙するものにしようとする意気込みがあり、「日本の伝統文化にもっと誇りを持とう」との強い願いもあってのことだという。新しい世紀の歩みに、日本人が自国の文化を大切にする志向への魁(さきが)けとして、その試みには背中を押される思いがする。
 さかのぼると、お能のなかの「高砂」は、特に祝儀の席で多く謡われ、より多く人形の製作にも用いられてきている。それは松の葉音を神婚の語らいとする「高秒」が将軍家の徳川の姓、松平に因む松の能として、江戸城での謡初に謡われたところに由来している。諸大名を通じて各藩に普及した謡いは、長寿の夫婦「翁と姥の縁起」も手伝い、婚礼はもちろん、ほかのめでたい席に数多く謡われ、その祝意は武家社会のたしなみとして深く根を下ろし、さらに幅広い一般の階層での生活の節目に用いられる拡がりを見た。「高砂や 此の浦舟に帆を上げて 月諸共(もろ)ともに 出で汐の…」の祝い唄は、現在でも結婚披露宴や結納の席でよく謡われ、関西地方では結納の嶋台に高砂の人形が飾られる。また婚姻願望、その予祝の意が強く込められたひな祭りでは、その祝意を寿ぐとして「高砂」が浮世人形の部の筆頭として、お節句贈答には欠かすことなく用いられている。
 演能の正式な番組では高秒は初番目物に位置され、神曲とされる「翁」に対し脇能(わきのう)の呼び方もされる。その内容から神能の部に属し囃子座に大鼓が加わり、ひな祭りの五人囃子に見る、四つの楽器の並ぶ姿で上演される 高秒は室町の前期、およそ六百年の昔、二世観世太夫、申楽(さるがく)から現在の夢幻能を完成させた世阿弥(ぜあみ)元清により作られた。物語は九州の阿蘇神社の神主、友成(ともなり)が兵庫の高砂の浦を通りかかると、松の木の下を掃き清める老夫婦に出逢う。そこで高砂の松と住吉の松が相生(あいおい)の松であるいわれは、松寿千年の御代と夫婦相生を寿ぐ譬(たと)えとの語らいを聞く。そして私たちは高秒と住吉の松の精であることを明かされ、友成を住吉で待つ約束をうける。やがて友成も舟に乗り、住吉に着く。そこには月の光のもと、住吉明神が現れ、万代の御代と国土安穏を祝っての舞を舞う。物語からは航海の安全もうかがえて天下泰平、延年長寿、夫婦和合に加え、人生航路の船出に航海の無事安全の祝意も重んじられる。「ぬしや百迄 わしや九十九迄 ともに 白髪の生える迄」と唄われる俚謡(りよう)の相生白髪(ともしらが)は、高秒の姿としてよく知られる。翁の持つ熊手は財を集め、姥の箒(ほうき)は邪心を掃き清らかにする縁起として、相生白髪と熊手、箒の吉祥が喜ばれ、浮世人形としての高秒には松竹梅、鶴亀の吉祥も添える形での製作が通念となり、長く続いた。人の一生を通じると誰にも病と老いが待っている。健康でゆとりのある楽しみが持てる老境を過ごす望みは変わることのない永遠のテーマだろう。険しい海辺の地にも根を張り、風雪に耐え、その緑を絶やさぬ松の姿に昔から人々は畏敬の念を抱き、常緑の吉祥が尊ばれるなかで高砂の曲は生まれたに違いない。松の葉風を奏でる、あの葉元の二本一束の形状も、高秒の夫婦和合のいわれとして人々は見落とすまい。

雛人形 婚礼と雪洞 vol3

雛人形 婚礼と雪洞 vol3

その昔、上巳の節句に、生児男女の区別なく祝いをしていた事実も伝わっている。
 案ずるに、我が国の原始信仰に、人は誕生する時、肉体と共に霊魂を具えてくる。やがて、魂によって人の活動は促される。
 結婚し、霊魂が結ばれることで、生命は生まれ、死によって魂が肉体から抜け出すと信じられていた。
 懐胎から始まる人生の通過儀礼を考えると、人の誕生の一年は、実に厳格になされる。それは、魂のためになされるとさえいえよう。
 七ツ前は“神の子”といわれるが、それは魂の未熟を意味するのかもしれない。
 ひな祭りでは、女の子の魂や情緒と呼ばれるものの発育が促される。帯解きの祝いをするころには、難しい知識を正しく吸収でき反応できる社会人としての仲間入り(氏子(うじこ)入り)の素地ができあがる。情緒も安定し、“キレる子”など考えられない。

- 生児一人に一飾リ -

 さて、現代の初節旬では、祖母や母親や姉たちのおひな様を飾って祝うことに懸念がもたれているが、ひな祭りに寄せる本来の観念からいえば、お祝いする女の子の婚姻への願いは無視されることになるわけだから、“私のおひな様”、 つまり身祝いとしての各児一飾りの是非は、いうまでもない。
 誕生した女の子の初節句から、年毎のひな祭りを重ねるなかで、やがて、“私のおひな様”という想いが芽生え、強く意識される。、その想いは、日本人女性の誰もが経験することで、昔から脈々と続いてきている。そして女の子の一生を通して、“私のおひな様”にいろいろな思い出や出来事も封じ込められることになる。

(3)ひな壇の婚礼
- 雪洞は華燭の典の象徴 -
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 循環する四季の十二支の陰と陽(図解参照)。
春 少陽 一月(寅)、二月(卯)、三月(辰)
夏 老陽 四月(巳)、五月(午)、六月(未)
秋 少陰 七月(申)、八月(酉)、九月(戊)
冬 老陰 十月(亥)、十一月(子)、十二月(丑)

 十二支を演出したと考えたい六曲一隻の金扉風の前、おだいり様とおひな様は、日月の暈(かさ)ね紋様・繧繝錦縁(うんげんにしきべり)の畳をのせた浜床台に座る。
 その一対の台の間には、伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美命(いざなみのみこと)二神に供え、御酒が瓶子(へいし)一対で三方に飾られる。これは結婚した夫婦とその家族や親族の絆を結ぶ陰と陽の神酒でもある。
 両側に侍る官女は、長柄の銚子、右側は提子(ひさげ)を持ち、中央は盃か蓬莱の島台を運ぶ姿で、華燭の典・式三献(ひきさんこん)の儀の模様を表している。そして雪洞は、華燭の典での夜陰の灯りを象徴したものといえよう。
 天(あま)の御柱(みはしら)を男神が左廻り、女神が右廻りをして美斗(みと)のまぐあいがある日本創世の神話に倣い、左の瓶子に雄喋(おちょう)、右の瓶子に雌喋(めちょう)の喋花形を飾る。
 二神に供えられた神酒は、まず雌喋の瓶子から提子に移し、次に雄蝶の瓶子の神酒をその上に注ぐ。さらに提子の神酒は、長柄の銚子に移され、盃に注ぐ。
 本来、両側の官女は神に仕える巫女(みこ)の姿で、未婚の女性のため眉があり、左の官女は口を開き、右の官女は口を結んでいる。
 中央の官女は待上臈(まちじょうろう)と呼ぶ年功を積んだ女性で、袿(うちき)を着て、眉がなく口を開けていのる。この女性は婚礼を司会し、祝詞(のりと)の口上を述べ、式三献の儀を進行させる。
 婚礼では、提子に雌喋、銚子には雄喋の蝶花形が飾り付けられるが、瓶子一対を入れて四丁(しちょう)を忌み、菱飾りがつく形式もある。
 宴席を同じ盃が一巡すると一献であり、廻る盃で一回(ひと口)飲むことを一度という。 一献の盃を三度に飲んで三献を重ねるので、三々九度の盃である。
 古代中国では、祝宴の席に人を迎える最高の礼が、九献であった。日本に渡りいつのころから、九献が三々九度の盃に転じたのであろうか定かではない。
ひな壇に嫁入り道具が並ぶ姿のひな祭りでは、初節句にはすでに次の次の世代の誕生をも願う心が込められているのだ。

雛人形 婚礼と雪洞 vol2

雛人形 婚礼と雪洞 vol2

さて、婚礼の刻限を確認できるものに、二代将軍秀忠のむすめ東福門院和子のお嫁入りの記述がある。和子は女御(にょうご)として元和六年(一六二〇)入内(じゅだい)しているが、午(うま)の刻(午前十一時~午後一時)に二条城を出立する流れの中で、和子の牛車は一つ刻(とき)を要して、御所郁芳(いうほう)門より新造の女御御殿には未(ひつじ)の刻(午後一時~三時)に到着。そこで休むこと数刻。亥(い)刻(午後九時~十一時)清涼殿に赴き、後水尾天皇と初めて対面し、次いで常(つね)御殿に渡り、三献の儀式が行われている(「女御々入内記」より)。
 古法に従った事録に接すると、亥の刻限、亥の月、神無月の婚礼、さらに華燭の典という辞(ことば)の由来にも想いが及ぶ。
 桃の節句。町雛として盛んな拡がりを見せたひな壇の最上段には雪洞が灯る。宵闇の暗がりにほんのりと浮かぶ男女一対の内裏雛。二段目に三人官女が控える姿は、ひな祭りとして日本人の誰からも愛されてきているが、実は婚礼の絵巻でもあった。初節句を迎える女の子のために、おだいり様。おひな様と称(よ)んで飾られる男女一対の内裏雛の姿には、やがては健やかに成人して、おだいり様のような素敵な男性に出会い、文字どおり三国一の花婿に恵まれるよう、そして豊かな結婚生活がかなうようにとの願いが込められている。
 つまり、初節句を迎えた女の子の形代(かあしろ、身代わり)とされるおひな様にとって、おだいり様は″赤い糸で結ばれている″将来の夫となる男性の理想像をないまぜにしている。

(2)ひな祭りに託された願い

 いずれにしても、ひな祭りでは初節句を経た女の子の身祝いとして、年毎の節句の度にひな人形に託して一年無病息災であることへの願いが込められてきた。
 人はよく、赤ちゃんには親を選んで生まれてくることができないというが、女の子が胎内で出遭った祖先の穢(けが)れ、遠い原始の祖先たちの畏(おそ)れを知らず知らずに受け継いできていることヘの修祓(しゅうばつ)の願いも、込められていたと考えられる。
 お祝いする女の子の成人に寄せた婚姻の願望が強く働いて、その予祝を重ねるなど、生命を宿す力のある女性の成長に対する両親、祖父母の思いはひな祭りに多くの願いを寄せている。
 もともとひな祭りは上巳の節句に包含される。五節句の上巳の節句は中国から流入したものだが、我が国では古くから巳の日の祓の思想が原点にあって、ひな祭りの祝いがなされてきた。
 巳とは蛇であり、冬眠から覚め、自然界に水が溢れてくる季節、蛇は自身の身体を脱皮して成長する。
 祖先たちはその姿の神秘を身殺(みそぎ)として感じ、災厄や穢れを我が身からそぎ落として、無病息災や清浄な心身を祈願してきた。ひな祭りの祝いが年中行事として行われるのも、蛇の脱皮擬(もど)きといえよう。
(次号に続く)
「にんぎょう日本」2000年2月号掲載

雛人形 婚礼と雪洞 vol1

雛人形 婚礼と雪洞 vol1

2000-01zu
(1)赤い糸で結ばれている私のおひなさま
 十月は陰暦では和名を神無月とよび、十二支で数えると亥(い)(猪)の月とよんだ。
 国中の神々は出雲の国に集まり、出雲以外の各地の神様の社(やしろ)は、神不在の月にあたる。それゆえ、神前での婚礼は無意味なものではと思えるのに、十月は婚礼のシーズンとされ、婚礼の知らせもこの月に重なりやすい。なぜなのか。そこには神無月の神不在を俗説として寄せつけぬほどの何かがあるのだろうか、興味をそそられる。
 そのことはさておき、婚礼の歴史を知るうえで、面白い記述がある。
 「婚礼は夜する物也。されば古法婚礼の時、門外にてかゞり火をたく事、上臈(じょうろう)脂燭(しそく)をとぼして迎に出る事旧記にある也。男は陽也、女は陰也。昼は陽也、夜は陰也。女を迎うる祝儀なる故、夜を用ル也。唐にても婚礼は夜也。されば婚の字は女へんに昏の字を書也。昏はくらしとよみて日ぐれの事也。今大名などの婚礼専ら午の中刻などを用る事、古法にそむきたる事也」。
 江戸期の『貞丈雑記』にある考峯で、祖先たちが婚礼にどう臨んでいたのかが分かる。ここで大切なことは、自然界の時の流れであろう。陰と陽の二元に対する思い入れである。
 一日に昼と夜の陰陽があるように、四季一年にも陰の季節と陽の季節の循環があり、その区分がなされる。
 月日や時刻まで十二支の数詞でよんだ昔、十月は亥(い)(猪)の月にあたる。陰暦での十月は、冬至がまわってくる子(ね)(鼠)の月を前に、一年では一番日脚が短く、夜長の時期。夜の陰の深まりが四季を通じて最も強く感じられる月であり、十二支最後の亥の月になっている。
 冬至を境にして日脚は少しずつ伸びる。陰極まれば陽に転ずるたとえの通りに、亥の月には冬至を前にして一陽来福という明るい伸展への願いがあったに違いない。冬の寒さを表したものに、「冬至、冬なか、冬はじめ」という気象用言があるが、亥の月に立冬があり、子の月に冬至が、丑(うし)の月に冬の了(おわ)りが告げられ、寅(とら)の月は(旧)正月。春がやってくるのに、寒さが続く。
 一日十二刻を十二支でよぶときにも、今日一日の了(おわ)りと明日の一日の一(はじめ)を意味した子の刻は真夜中で、夜の陰が深く、季節の冬至と同様、夜明け前の寅の刻まで夜陰が続く。ありていに申せば、四季の陰陽、昼夜一日の陰陽の区分を感じとり読み取るのは、平成の私たちにとって努力を要する。
(次号に続く)
「にんぎょう日本」2000年1月号掲載

雛人形 五人囃子の顔 vol2

雛人形 五人囃子の顔 vol2

1993-02zu
かくされた童男の理

 一から九までの数が、縦横斜め何れからもその和を十五にする魔方陣は、自然界の生命エネルギーの運行作用を示す洛書の図であることは以前にふれた。九つの数はそれぞれに色彩名が割り当てられ、人の星ともされて九星と呼ばれる。目には見えぬ時間や空間、つまり季節や年月時刻、そして中心や各方を陰と陽二元の原理に基づいてその数を配分し、各々の数に天地間の現象を置き換え、綿密な天文観祭を経てその一つ一つに象意が見出されている。これが洛書に示されて八卦と呼ばれる。「乾は天なり故に父とす」「坤は地なり故に母とす」というように、八卦は人間関係に置きかえ、さらに「乾坤に六子あり」Lして三男三女がそれぞれ位置され、少男つまり童児は洛書九星図の八白に象徴されている。

 九星のそれぞれに、さらに十二支が配当され、八白の位置は、丑寅うしとら方角で北東、時刻の丑寅はおよそ午前一時から三時、年前三時から五時をさし、丑の月は旧暦の十二月、寅の月は旧暦の正月をさす。季節に当てると、丑は冬の強い寒気であり、寅は春への移行の時に当たり、八白には変化宮つまり陰極まって陽に転ずる進展の象意を見ることができる。

 さて、十二支は本来植物の発生・繁茂そして伏蔵という循環の様子を示したもので、植物が種から始まって実を結び、新しい種を宿す状態を表わす。子は完了と一はじめを意味する種子の状態、丑は種子内で紐状に変化する様子、寅はうご(虫へんに寅)めくで地上への発芽の時とされる。

 一日の時間の流れの中では、草木も眠る丑満どき夜の闇が極まって暁に変わる刻限が寅の刻、人間の一生に見立てると母の胎内の暗黒から分娩があり生命の誕生。そして心身ともにめざましい発育を見るこの時期は童児の姿に象徴され、陰の極まりから陽への進展を司る姿として位置づけられている。

 十五人の揃雛の中で五人囃子にのみ童児形が用意されたのは、八白の象意によるものといえる。初節句には生命誕生の謳歌、成人ヘの予祝、女児の心身の新生成長進展を節句ごとにはやす。そうした役割にかくされた理は八白童男の象意であり、明治の改暦以前千余年にわたって我が国の人々の生活の隅々まで浸透した十干十二支九星など、陰陽思想の哲理だともいえる。

 いろいろな祭によせる人々の心は、その祭の行事のあり方もさることながら、祭にかくされた理でもある。理を求めずしてひなまつりの本来は、やがて失われるときが待っていよう。

 完成された形のひなづくりによせた何代にもわたる先輩たちの苦心や智恵は今でも生きている。現在その仕事にたずさわる私たちが、単なる商品と同様の製販にあたるのは、祭具としての雛本来の伝統の崩壊につながる危倶の念にかられてならない。

「にんぎょう日本」1993年2月号掲載

雛人形 五人囃子の顔 vol1

雛人形 五人囃子の顔 vol1

1993-01zu
地蔵の剃髪童顔

東大寺大仏殿の真ん前の中庭に、唯一創建当時のものとされ、天平時代の優れた文化を今に伝える金銅燈篭がたっている。

この燈篭のレリーフの美しい音声おんじょう菩薩は、童顔の姿である。盧庶那仏るしゃなぶつの正面に立つ灯りは、仏への観想の世界による配置と思われるが、私にとっては五人囃子の童児形を考える嚆矢となった。

本尊に対する声明しょうみょうの流れ、そして童顔の菩薩の姿は、対雛と五人囃子の配列を彷彿とさせる。

五人囃子の子どもの姿の果たす役割に想いを巡らすと、私たちの身近には、日本人の誰もが知っている地蔵菩薩の姿があるのに気づくだろう。

菩薩像は儀軌によって頭に宝髻ほうけいを結い、宝冠を戴き、体には瓔珞ようらく、首飾り、臂釧ひせん、腕釧わんせんそして足釧をつけ、天衣てんね、 条はく、もすそ(裳)をまとう姿が常だが、大地の慈愛の顕現とされる地蔵菩薩だけは剃髪童顔、そして衲衣のういの姿で人々の信仰をあつめている。お地蔵様と呼ばれ童謡や俚謡にうたわれ、最も親しみの深い仏といえる。

地蔵の功徳はこの世に止まらず、あの世にあっても救いの手をさしのべ、現世来世に及んで人々の魂を救ってくれる。賽さいの河原の造塔功徳をうたった地蔵和讃など、親に先立つ子どもの哀れが、聞くものの心を揺さぶり涙を誘う。子どもの守り本尊とする地蔵信仰の定着も、子どもの命への親の思いの深さによるものといえる。

さて、人の一生についてこの世に生を享けた、つまり懐胎がなされたときを生有、生存の間を本有、死期を死有と呼ぶ。また、現世から来世へと次の世に生まれ代わる七七、四十九日をさして中有と呼んで、その世界では魂魄がさまようとされるが、故人の霊魂を救い、浄土へ導くとされる仏が地蔵だ。ことに親に先立って迷い悲しむ子どもの魂を救ってくれる仏ということで、人々の祈願は絶えることがない。

そのためか、地蔵の縁日は毎月二十四日だが、盆の二十四日に行う地蔵供養は、地蔵盆と呼んでいまも子どもたちの手で行われてきている。

お地蔵様と呼んで親しみの深い地蔵信仰は、宗教を離れて強い民間信仰として生きている。頭を丸めた姿の地蔵の童顔の姿は、五人囃子の童児形を考える際、見逃すことが出来ない。

五人囃子の童児形については、幼児の無心の姿を最先に考えてみた。その無心とは清浄ということばに置き換えられようか。五人のお囃子には幼児の清らかさが望まれたのである。清浄こそ、人の霊魂の姿ということが出来る。

(つづく)

「にんぎょう日本」1993年1月号掲載

1993-01zu

雛人形 五人囃子について

雛人形 五人囃子について

1992-12zu
成長への儀礼

 生旺墓の理によってみると、誕生から成人までの期間は、生まれる、つまり“生”の部分に当たる。肉体の成長と共に生霊の増殖する養育期であり、受胎あってから帯祝・産褥見舞・命名式・宮参り・食初めなど、誕生にまつわる儀礼があり、初節供が終わると現在の七五三に相当する髪置(かみおき)、つまり髪の伸ばしはじめを祝う儀礼が行われた。男女とも、三歳の陰暦十一月十五日に菅糸でつくった白髪をかぶらせるというものだ。

 また、三歳から五歳の間に髪の先を肩までの長さで切りそろえる儀礼があり、陰暦十一月十五日碁盤の上に子供を吉方に向けて立たせ、仮親(その子にとって信頼できる他人になって貰う)が盆の上に切り落とされた子供の毛に少し鋏を入れ、川へ流す深枇ふかそぎの儀礼がなされる。

 男子は五歳から九歳までの間に、女子は七歳の十一月の吉日に帯直おびなおし(帯解き)の礼をする。小袖の付紐を取り除き、紐のない小袖に帯を結ぶ儀式をする。男子の元服は幼名をやめ、烏帽子をつけ成人の服を着、髪を結い冠をかぶる儀式で十二歳から十六歳位までの間に行われたが、江戸時代の武家は男子十七歳霜月十五日に初冠(成人式)を行って男髷に改め、幼名を成人としての実名(烏帽子名)に改めて元服がなされた。

 女子の成女式は鬢枇びんそぎといい、十四歳から十六歳までの間の六月十六日に鬢の先を切る。鬢先を切る役を鬢親といい、碁盤の上に吉方に向かって立たせて鬢を切り、生年月日と名前を書いた紙を川に流す。式が終わると鉄漿おはぐろをつけ、眉作りをして大人の姿になり、式三献を行った後、祝宴が催された。

 男女とも成人の式が済むと、肉体も生霊も完成され、活動期“旺”に入り、旺んに活躍することになる。そして男女の霊魂が結ばれる。因みに、大宝令制では男十五歳女十三歳で結婚が認められている。

 このように衣裳と共に髪形かたちは社会秩序の上で重きがおかれた。成人後の髪型,髪結の形にはいろいろな約束が込められ、身分・年齢・職業など男女ともその分類は多岐にわたった。そんな中で幼児は埒らちの外におかれ、幼児期の髪形には自由さがあったといえる。

 五人囃子の童児の髪形は、その自由さを象徴したものといえる。江戸期以前の文化の移入は中国からの影響がほとんどといえる中で、唐児からこの髪形には雛ひいな本来の可愛さ、あいくるしさを認め、幼児の髪形へのあそび心や楽しさを求めたといえる。それは往時のハイカラ指向のあらわれかも知れぬ。唐児からくり人形に伝わるようにその姿には軽業を彷彿させる身軽さを認め、無事成長のための子供らしさ、活発さを五人囃子の生やす意味に込めたものといえようか。

「にんぎょう日本」1992年12月号掲載

雛人形 対雛と五人ばやし

雛人形 対雛と五人ばやし

1992-11zu
対雛と五人囃子

 江戸時代の半ばを過ぎると、雛飾りに対雛と五人囃子、そして雛道具は飾り方の組み合わせとして絶対的という観念が強く流れるようになった。時を経て昨今、雛段飾りの簡略化された形は、対雛に三人官女を加えて五人飾り、さらに随身を飾って七人飾りといった風だが、明らかに女児の無事成長を祝う呪術としての意味合いは薄れてしまっているといえる。

 宝暦九年に江戸では京雛の移入が禁止されるが、幕府の為政の故もあって宝暦以降は江戸文化の権立期とされる。その頃が現今の座雛の完成期ということができる。 古今雛こきんびなの創作者といわれる舟月や五人囃子の作者として名匠といわれた玉山の出現がある。

 雛づくりの仕事上では特に五人囃子に想いをひかれる。そこには座雛の雛飾りの構成の本来があるからだ。宇宙を構成する五大五行(五気)のもとで五季の気候は春、夏、秋、冬、土用であり、目で見る五色は青、赤、白、黒、黄であり、天地間の生類は霊長たる人間、獣、禽、虫、魚を指す。人間には五体(頭、両手、両足)、五臓(漢方でいう肝、心、脾、肺、腎)、五指、五感(視、聴、味、嗅、触覚)、五欲(財、色、食、名誉、睡眠)があり、口で知る五味(甘、酸、辛、苦、塩辛い)、耳で聞く五音(あいうえお)もまた″五″に関わる。人間の踏む道にも仁、義、礼、智、信の五常の道があるといった往時の観念が込められて、五人囃子は必ず対雛と共に飾られた。

 五という極致は天地が創造し自然のものすべて五つで大極そのものの現れだと考えられた。関東風の雛で五人囃子の立袴(小鼓、羯鼓(かっこ))には踏み出し、踏み込みの伝統がある。十五人揃の中では歌舞伎の様式である六方を踏む態(さま)を入れて、唯一カの入った動態で運気の消長を示したといえるだろう。

 文化十年、江戸・中村座での上演に古今雛が取材されている芝居絵には、当時の歌舞伎の影響がしのばれる。古いところでは、鶏の故事がある。古事記に天照大神が天の岩屋戸に隠れた時、常世(とこよ)の長鳴き鳥として鶏が記されている。天宇受女命(あめのうずめのみこと)が空桶を踏みならし、鶏を集めて鳴かす。日本では鶏は夜明けを告げるために飼われ、最も親しみが深い一番(丑の刻二時)二番(寅の刻四時)三番鶏(卯の刻)の鳴き声で時を知る風習があった。皇祖天照大神を主祭神とする伊勢神宮の神使は、天の岩屋戸の故事により、鶏になっている。鶏には五つの徳があり、五羽を画いて吉祥とされる。夫婦と子供三人の組み合わせは家族の理想とされ、古来わが国では早朝の清浄を尊び、鶏の鳴き声は「東天紅」とされ、太陽を迎えるところから一日の家内安全も含めてその吉祥が表現される。天宇受女命は里神楽ではおかめであり、 火男(ひょっとこ、猿田毘古神)と向かい合って踊る。天宇受女命は大嘗祭や鎮魂祭に仕えて舞の始祖とされ、芸能、神楽の祖神とされている。五人囃子には五つの数に連ることどもを踏まえて、誕生したわが子のつつがない成長、幸せな結婚をという、対雛へ託された親の希いを対雛に促す力が与えられ、可愛いわが子の人生の幕開きの役も務める。対雛と五人囃子は誕生した女児の未来の幸せな家庭への予祝の形であり文字通りお囃しといえ生命の躍動、歓喜、奉納舞楽のすがたが見えかくれする。

「にんぎょう日本」1992年6月号掲載

雛人形七段飾り、十五人飾りパート4親王台について

雛人形七段飾り、十五人飾りパート4親王台について

庶民が宮中に対してのあこがれ、自分の娘の幸せに対しての思いがここにもあります。

繧繝縁(うんげんべり)、畳台のヘリの模様です。

最も格の高い畳縁で、天皇・三宮(皇后・皇太后・太皇太后)・上皇が用いました。親王や高僧、摂関や将軍などの臣下でも、「准后」(准三宮)という称号が与えられると三宮扱いになるため、繧繝縁を用いることが出来ました。また神仏像などでも繧繝縁を用いています。雛人形の親王雛は繧繝縁の厚畳に座っています。「源氏物語絵巻」でも匂宮や女三の宮が座している畳は繧繝縁で、臣下が座しているのが高麗縁と描き分けられています。

このように、三国いの花婿と一緒になれることを夢見て、お雛様の下に台座を用意した物と思われます。

 

正月飾り、羽子板、破魔弓など二人目、三人目のお子さんに対してはどうする・・・

正月飾り、羽子板、破魔弓など二人目、三人目のお子さんに対してはどうするの? 

お父さんやお母さんの節句人形がまだ大切に保管している、

 

または、上のお姉ちゃん、お兄ちゃんの人形がすでにある、

 

このような場合にどう考えればよいのかというご質問を受ける事が多々ございます。

 

 

暮の羽子板、破魔弓に始まり、雛人形、五月人形、鯉のぼり、鎧、兜など、

 

先ずは身祝いという考え方で節句行事の他に腹帯にはじまり、

 

生まれれば、お七夜、宮参り、お食い初めに始まり誕生餅などから、

 

七五三迄、昔は『7つ前は神の子』と言って、

 

罪も咎められない代わりに一人前扱いされないとされたその間、

 

誕生を祝い無事成長を感謝する行事がたくさん行われています。

 

 

現在でもお子様の誕生を祝い無事成長を願う心は、

変わらずその子のためのお祝い(祈祷)をしてあげるという考え方で行われてきました。

 

神社に行ってお参りをするとお札を頂いて来てお家の中に祀っておきます。

 

一年たったら新しいお札と交換するのがきまりのようです。

 

お節句品も本来お子さんに悪い事がないように願って祀る物(一年更新)を、

お家の中に神様に来てもらって飾りもの(雛人形、五月人形、鎧、兜)にお子様の厄災を身代わりさせ封じ込めてもらうというお祭りです。

 

それから一緒に並べる飾りものに願いを託しています。

 

このような形で続いてきました。

 

 

また羽子板、破魔弓の場合その縁起の力で邪気払いを願う。

 

 

昔からの民間信仰で全国に広まっている世界でも類を見ない日本独特の文化です。
これが決まりですということはできませんが、

 

一人一人のお子様に道具や身代わりを用意してあげられると、

 

本来の意味がつながると考えます。

一年中飾っておいてよいのですか?破魔弓についての質問

一年中飾っておいてよいのですか?破魔弓についての質問

良くはないと思います。
本来、暮物といい、歳暮として、やり取りされたもので、破魔矢と呼ばれた武者を描いた掛け軸が、親元の他親戚やご近所から贈りものとして、たくさん集まり、暮れの時期からそれを床の間いっぱいに下げて、お正月を迎える風習で、暮れからお正月にかけて行った新生児に対しての鬼除けの儀礼です。歳暮の意味である無事に新しい年を迎えられるようにという情意も込められています。

雛人形七段飾り、十五人飾りパート3雪洞について

雛人形七段飾り、十五人飾りパート3雪洞について

お雛段に雪洞が付いているのは、なぜかという疑問もよく聞きます。

昔の結婚式は、夕方お嫁さんを迎え入れ結婚式が始まるわけですが、

式三献(三三九度)行われたのは、夜の亥の刻(現在の11時ぐらい)になったようで、

灯がないと結婚式はできませんでした。そのため雪洞を(燭台)とセットしています。

雛人形七段飾り、十五人飾りパート2屏風について、

雛人形七段飾り、十五人飾りパート2屏風について、

7段飾りの一番上には、6曲の金屏風が一双ここから始めます。

6曲が2枚で一双といいます。6×2は、12これで12カ月を表します。

この屏風の前に人が特にカップルが、並んで座ると結婚した姿をあらわします。

向かい合っているとお見合いです。

さてこのカップルお雛さまが赤ちゃんの分身ですから、十二単を着た女性は、赤ちゃんの将来の姿。男性は、直衣束帯を着た身分高い男性、(いわゆる三国一の花婿)なのです。

北半球では、北極星が動かない星で、天帝といわれる存在です。そしてその力を後ろ盾に

人間界の為政者が、天子を名乗り民衆を統治してきました。

ですから、天子は、北を背にして、南面を向って、治めるわけです。

そうした時、左手が東、右手が西になります。日の出の東、日の入りの西、これが一日一年という考え方で、一日の拡大版が一年という考え方をした昔の人は、冬至から夏至の日照が長くなる半年間と夏至から冬至の日照が短くなる半年間にわけます。

そうすると二枚の屏風の中央の継ぎ目が夏至となり向かって右側が春夏の陽(日照時間が長くなっていく)の時間、向かって左側が、秋冬の陰(日照時間が短くなっていく)の時間となります。

宮中には、陰陽師で有名になりましたが、陰陽学がありました。

ものごと陰と陽のバランスで考えていく学問なのだと思いますが、そうすると左が陽右が陰になります。

屏風も左から日が昇ってゆく伸びてゆく半年間。右が沈んでいく短くなっていく半年間となるわけです。だからその前に配されるお雛様が陰で右、お内裏様が陽で、左になるわけで、これが、伝統的な考え方です。

雛人形七段飾り、十五人飾りパート1

雛人形七段飾り、十五人飾りパート1

先ず申し上げなければいけないのは、七段十五人飾りが、ひな飾りの完成系の造形美であること。

平安の禊、祓いの文化より発し、様々な時代の変化をへて数も大きさも増えたり減ったりしながら集約し、女児の一生の幸せを願い盛り込んだひな飾りであります。

祖先たちが、宮中にあこがれ垣間見た世界をひな飾りに取り入れると(  由らしむべし知らしむべからず)、為政者の思想や、学問が裏付けされていることに気が付く、調度品の意味、人形頭の並び方等々、なぜどうしてのことが多い。

七段十五人飾りを説明する事が、ひな飾りの意味と、ひな祭りの意味に近づけるように思う。

 

 

雛人形 なぜ五人囃子だけ子供

雛人形 なぜ五人囃子だけ子供

五人囃子の童児形

 幼い子がしゃがんで遊んでいる。声をかけても振り向こうともしない。顔が汚れ、着ているものが泥んこになっているのに頓着がない。時間の経つことなど毛頭気にならない。こんなあどけない姿こそ三昧の境地なのだという。

 昔から中国では十才を幼、二十才を弱、二十才を壮、四十才を強、五十才を艾がい、それ以上は十才ごとに耆き、耄もう、たい背たいはい(たいという字は魚へんに台)というふうに呼んでいる。また七才は悼とう、五才は童どう、三才は孩がいということで各年代の呼称にそれぞれ想いがあった。そして悼と耄は、罪があっても刑を科すことがない、つまり幼児と老人は社会の外において見守ったという。

 いずれにしても幼児のあどけない無心のしぐさ、童心といえばその純真さ故に誰も憎めないし、むしろ尊いと思う。

 親王対雛を主役と考え、雛十五人揃の構成の中、組雛として欠かすことのできなかった五人囃子だけは、どうして童顔が用意されたのか、単に雛まつりの希い本願を、可愛い我が子の形代かたしろでもある対雛に穢けがれない幼な子の姿でうたい上げるためのものだったのだろうか。男女対雛を最上段に、三人官女がすぐ下の段、三段目に五人囃子、四段目は随身、五段目に供仕丁で十五人の雛は陳列されるが、五人囃子の組雛だけは唐子からこの童顔が用いられ、他の雛たちには成人した顔立ち、髪形の頭(しょう顔)が用いられてきた。

 五人の童頭は向かって左からどんずりに結ひ上げの鬢びん、大きく口を結んだ太鼓、髪がワンカ、やっこ鬢びんはり、口開きの形が大鼓おおかわ、どんずりに前下げ髪、長い下げ結びの鬢びん、ちょぼ口が中央に位置して小鼓つづみ、どんずりに長く下げ結びの鬢びん吹きよせ唇の笛、カムロの髪型で口開きが謡うたい。こうした一連の形でより広く使用され、昭和三十年頃までその形式は続いた。そしてその姿は当時はごく当然に扱われた。

 またその当時までは、親王、官女、五人囃子、随身、仕丁はそれぞれ組雛として桐箱や前硝子の飾り箱などに入れて販売され、御殿飾りや雛段飾りが十五人揃になるのを前提に自由で縦横な販売がなされた。

 やがて店頭での販売に、十五人揃の雛段飾りと飾り段用九品の雛具でのセット化販売の規格が拡がると、業界の隆盛期を迎えるが、従来の生産では間に合わず、他聞にもれず、五人囃子雛頭もワンカにやっこ鬢びんはり、つまり大鼓おおかわの型だけで五人一律の略式形がとられるようになった。十五人それぞれの頭を用いた本来の伝統は少し消え失せるかのような流れで現在に至っている(結髪・面相については頭師としても長老である鈴木柳蔵、石川潤平両氏にその確認を仰いだ)。

(つづく)

「にんぎょう日本」1992年11月号掲載

1992-11zu

雛人形 嫁にいけない

雛人形 嫁にいけない

先ず、そんなはずはありませんが、昔の人たちは、神様を敬っていましたから、

自分の家にお願い事をするために呼び出して、いつまでも引き留めておくことは、失礼なことだと考えたようです。

そこで、言ってみればお雛飾りは、祭壇みたいなもので、早くしまわないと帰れないと考えたようです。

同様の言葉で、褻の日晴れの日というのがあります。お祭りの日(晴れの日)と、普段の日(褻の日)を区別しなさい(けじめを大切にしなさい)。

そこで、娘さんにそういう事を教え聞かせないで(見本を見せないで)育てると、「お嫁に行っても立派ななお母さんになれない子になってしまうよ」、という話を、誰かが嫁に行き遅れるとか行けないなど言う言葉に置き換え、戒めたようです。

雛人形と贈りもの

雛人形と贈りもの

贈りものについて考える時、社会変化を感じます。

品物が行ったり来たり、またお包みのお返しだったり様々な形で贈りもののやり取りがなされてきました。

昔は、贈りものの値段が正確に伝わるようにという贈り物は、しなかったように思う。

半返しなどという言葉もあって、標準的には、いただいたものに対しての目安は、あったと思うが、金額がわかるという部分は、日本的では、なかったように思う。

カタログによっての贈答が商業化し、何事にも利便優先で、相手のために何がいいか考える時間の労力や相手の家まで訪問する労力を省くためにできた産物だからカタログを送って、貴方からもらった物に対してのお返しは、こういう金額だからその中で選んでくださいということになった。

その方が、好きなものを選んで頂けるからという理論で、贈る。

お返し程度の金額で、カタログの中にほしいものなど入っているわけないように思う。

本当は、どんな物でもいくらかもわからないが本人が送ってくれたら方がありがたい気がするのは、少数派でしょうか?

本論のお雛さまを送ることについて、書きます。

お雛さまは、赤ちゃんを口実にした、両家が行き来するための大事なやり取りの一つだったように思います。

昔は、嫁ぎ先の敷居は高く、理由がなければなかなか嫁いだ愛娘に会えない。

また、嫁ぎ先の舅姑を敬うよう教育されていたので、娘の立場を思いやり自分たちも様子を見に行くための贈答の一つだったようにも思う。

そこで、さまざまな行事を用意して、娘さんの不安を気使い贈りものを携えて訪問する機会だったのかなとも思う。

よく嫁方からいろいろなお祝い事の贈り物がなされてきたわけですが、(そのことについてなぜというご質問も多いようですが)実は、そこに娘を思いやるご両親の深い愛情があったのではないかと感じます。

私がこの仕事について、配達業務を行っていた頃ですから30年くらい前にありますが、お届けにあがるといろいろなご家庭がありまして、お届け先のお宅で、さまざまなご説明をして、お客様の気持ちがうまく伝わるようにと苦労したのを思い出します。

現代のように女性がはっきりとものが言える時代、特段、嫁ぐという意識のない時代(もちろんそうでないという方もたくさんおられるとは思いますが)、に於いては、赤ちゃんに対する思い(お祝)という意味に絞られた贈りものなるわけで、どなたがどのように組んで贈られても、よろしいのかと思います。

もちろん昔からのしきたりに準じて、贈答をやられることも日本的ですばらしい秘めた愛情の表現方法だと思います。

でも秘められたもの誰かが伝えてくれないと、なくなってしまうように思う昨今です。奥ゆかしいお祖父さんお祖母さん少し沈黙は金だけでなく、ご自身の思いやごじしんのちs説明をお話をしてあげてください。

雛人形をいつ出せばよいのか

雛人形をいつ出せばよいのか

雛人形を飾りだす日を尋ねられることがよくあります。

基本は、節分過ぎてからという答えで良いと思います。

後は、3月3日より数えて最低一週間は出しておきたいものです。お家の中に神様を読んでお祭りを釣るわけですから。

最近雨水に出して、啓蟄にしまうなどという事を唱えるかたもいらっしゃいますが、単に現代のカレンダーで、頃合い感があうという話で、歴史的にはおかしなことです。

明治までの、旧暦では、暦と季節が一体となってきました。立春正月で、新年となり、雨水、啓蟄、春分、清明となるわけで、春になるのは、春分彼岸が明けるのを待って飾ると25日からというところだったようです。桃の節供は、桃が咲く頃のことで、辰月に入り地上に水があふれ、蛇が脱皮をするころということで、別名で、上巳の節句という言葉があるわけです。まだ、氷がやっと溶け出すぐらいの雨水では、お雛様の話にならなかったというのが現実だったとの思います。暦が太陽暦に替わり正誤を言うのは、難しいと思いますが、伝統的な考え方ではないということだけは、申し上げておきたい。

ひな人形は、何歳まで飾るのでしょうか

ひな人形は、何歳まで飾るのでしょうか

理想を言えば、その命の誕生とともに身代わりを果たすための物として、用意して頂いたわけですから、ずっと毎年飾っていただきたいと思います。身祝い(そのお子様一人のために行うお祝)のため飾っていただけたらいいなと思います。

本来「祝いとは」不吉なものを避け 、吉事を招くことを表すことばで、年齢は、あまり関係ないと言えると思います。

ただお雛文化に予祝の考え方が加わり、幸せな結婚式の姿を表現した飾りを使っている現代、実際に幸せな結婚式ができた時点を一つの区切りと考えることも良いのではないかと考えます。