今でも神道式の婚礼の儀では三々九度の盃を飲みますが、夫婦と両家の親族が同じ盃で酒を交わすことにより、異なる親族が魂がつながりを持つとされています。
宴席を同じ盃が一巡すると一献(いっこん)となり、廻る盃で一回(ひと口)飲むことを一度といいます。一献の盃を三度に飲んで三献を重ねるので、三々九度の盃となるのです。
古代中国では、祝宴の席に人を迎える最高の礼が、九献とされていました。この文化が日本に渡り、いつのころから九献が三々九度の盃に転じたのかどうかは定かではありません。
今でも神道式の婚礼の儀では三々九度の盃を飲みますが、夫婦と両家の親族が同じ盃で酒を交わすことにより、異なる親族が魂がつながりを持つとされています。
宴席を同じ盃が一巡すると一献(いっこん)となり、廻る盃で一回(ひと口)飲むことを一度といいます。一献の盃を三度に飲んで三献を重ねるので、三々九度の盃となるのです。
古代中国では、祝宴の席に人を迎える最高の礼が、九献とされていました。この文化が日本に渡り、いつのころから九献が三々九度の盃に転じたのかどうかは定かではありません。
日本創生神話にある男女の神にまつわるお話しで、どのように二人が出会い、命が生まれたのかというお話しをご存知でしょうか。
天の御柱の周りを男神が左廻り、女神が右廻りをして出会い、美斗(みと)のまぐあいがあり日本が誕生したという日本創世の神話。これに倣い、ひな壇では左の瓶子(へいし:お酒を入れる壺型の焼き物)に雄蝶、右の瓶子に雌蝶の蝶花形(ちょうはながた)を飾ります。
この男女の二神に供えられた神酒は、まず雌蝶の瓶子から提子(ひさげ:注ぎ口のある金属製の器)に移し、次に雄蝶の瓶子の神酒をその上に注ぎます。さらに提子の神酒は、長柄(ながえ)の銚子(ちょうし:酒を移し入れる時に使う器)に移され、盃に注ぎます。神社で行われる神道式の結婚式では、今も見かけることの多い手順だと思います。
提子(ひさげ)には雌蝶、銚子(ちょうし)には雄喋の蝶花形が飾り付けられますが、この二つと左右の瓶子(へいし)一対を合わせて四丁(しちょう)になるのを忌み嫌い、菱飾りがつく形式もあります。今もそうですが、昔も四の字は「死」を連想させるため避けられたのです。
このように男女の二神にまつわる神酒の器は、二神が出会うことで命が生まれたという神話にあやかったものなのです。つまり婚礼の儀は、次の世代の誕生を祈ることでもあるのです。
さて、人の世のさまざまな事柄が写し出されていると考えられる、雛の世界。その人形と道具の位置も、陰陽にそって考え抜かれています。
ひな壇の後ろを、北半球で動くことのない北極星が位置する場所、つまり北とすると、向かって右の陽が昇る東が陽、左の沈む西が陰と考えられます。こうして、ひな壇の向かって右が陽、左が陰という流れが見えてきます。
自然界の摂理に考えると、男は陽、女は陰という見方ができます。男雛は向かって右、女雛は向かって左に座るという、自然な位置が解ります。
因みに、何人も絶対に曲げることを赦さない仏像の儀軌によると、その左手は慈念手、右手は悲念手とも呼ばれ、仏教の原点の慈悲の心を意味します。
左手(向かって右側)の慈は、如来の心の父親の愛であり、右手(向かって左側)の悲は普く包む観音菩薩の心であり、母の愛を表すとされます。
対雛の男女の位置について、右か左かどちらが本当なのか問答は多いですが、数年来私はその答えを迷わないことに決めています。
江戸時代、時も方角も、人々は十二支を当てて考えていました。十二支によるものの考え方は、陰陽思想からきています。
古代の中国哲学の原理である陰陽思想は、どこかかび臭く古い考えと思われるかもしれません。ですが、実は天文観察から生まれたもので、意外に科学的で奥深く究められたものです。
自然界の摂理を文字に置き換えているため、現代の私たちが学んでも新鮮に感じるものが多いことに驚きます。
色々な自然界の摂理をとらえる陰陽思想では、東西南北の方角方位のこともよく考えています。
方位は十二支で表され、子の北に始まり、丑寅が北東、卯が東、辰巳が南東、南が午、南西が未申、西が酉、北西は戌亥となります。
方位と時刻月次が重なる丑寅は、鬼門としてよく耳にすると思いますが、これについては別の機会にお話ししたいと思います。
陰陽については前の記事でも少しお話ししましたが、これは世の中のあらゆる物や事象をプラスとマイナスに分けて考えるというのものでした。
江戸時代は陰陽の考えが深く根付いていたため、雛人形の形に関しても知識人たちが試行錯誤して、陰陽の恩恵にあずかるよう多くの工夫を凝らしました。
そこで、どの顔をどの人形にさすべきかの答えは、この陰陽にあるのではないかと考えました。
まず注目したのは陰陽の桜橘の並びです。
ひな壇では向かって右に桜、左に橘を並べます。桜は春、橘はみかんで秋を意味します。ひな壇に春秋があるということは、季節の陰陽がこのひな壇には込められていると言えます。
ということは、お人形の顔の並びも陰陽に従ってさせば、自然とあるべき形が見えてきます。
そこで決めたのが口開きと口結びです。口を開くのは陽、口を結ぶのは陰というのは自然とイメージできると思います。
桜がある右側のお人形には口開きの顔をさし、橘がある左側には口結びの顔をさすと決めました。
もともとはお内裏様の顔も口が開いていて、お雛様が口を結んでいたのではないかと思っています。
意味を知れば雛づくりのあるべき姿がわかってくる
今お話ししたことが正しいのか間違っているのかは、はっきりした文献が残っていないためわかりません。
ですが、陰陽思想のように昔の考え方を紐解いていくと、お雛様の自然の流れに従った姿が見えてくるんじゃないかと思います。
はっきりとした決まりが文献で残っていない業界だからこそ、本質に立ち返って雛人形に向き合っていきたいものです。
ここで、ひな壇の形の歴史についても見ていきましょう。以前、七段飾りは江戸時代に完成されたという話をしました。
江戸時代、武家の間では今よりもずっと大きいお雛様が贈られていました。最初は等身大くらいの大きな人形が臣下から奉納され、ひな祭りのお祝いをしていたのです。それが段々と広まってくると、競うようにお道具も金ぴかになり、ますます派手になっていきました。
そこに、将軍徳川吉宗が奢侈禁止令(しゃしきんしれい)を出し、「贅沢をしてはいけない」と命じました。その後人形は急に小さくなっていき、やがてその大きさは八寸という高さで止められました。
ところで私どもの業界では、顔を抜いた状態で八寸を図ります。雛人形は胴がらと首を別々に作って、最後に首をさすのですが、その首をさす前の状態で、サイズを測ります。
ところが江戸の役人はそんなことを知らずに頭から下まで測ったため、「八寸以上あるじゃないか」と言ってきたそうです。作り手の常識を知らなかったんですね。
今でも八寸といえば、顔を抜いた状態の肩から下までで八寸と言います。
その後、大きさをもとにしたお人形の呼び方がいろいろ生まれました。柳三寸とかこげし、けし。10番、9番と番も入ってきて、5番となると結構大きいです。
創作人形 吉貞のサイトリニューアル致しました。
節句のお話、人形のお話やマナー等、日本人形に関する情報を随時発信していきます。
お雛様・お内裏様を左右どちらに置くかというのは、様々な考え方があります。
例えば、その時代の天皇さまと皇后さまの座り方に倣った並べ方です。
昔は一般的に、向かって右が高貴な方が座るという考え方をしていましたので、右がお内裏さま、左がお雛様とされていました。
ですが大正から昭和にかけて、西洋に合わせて並びが逆になりました。式典の際に向かって左に天皇さま、右に皇后さまが並ばれるようになり、雛人形の飾り方もそれに習って左にお内裏様、右にお雛様を飾ることになりました。
ここで吉貞人形では、明治以前と同じく「向かって右にお内裏様、左にお雛様」としています。
というのも、もともとの右に男、左に女という並びにはきちんと意味があって決められていたものだからです。
雛人形というのは、生まれたばかりの女の子の無病息災を願い守ってくれる結界としての役割を持っています。そのため、七段飾りの形ができあがるまでには、赤ちゃんを守るために中国の陰陽思想をはじめとした様々な試行錯誤がなされたと考えられます。
古代の中国からの陰陽思想では、世の中のあらゆる物事や宇宙の森羅万象を、対となる陰・陽の2つの要素で分類しました。
イメージを持ってもらいやすいように、下記の表をご覧ください。
陽:男、太陽、昼、光、夏、春、天、火、明、上昇、能動的
陰:女、月 、夜、陰、冬、秋、地、水、暗、下降、受動的
陰と陽というのは互いに補い合う関係を表します。どちらか一方が欠ければどちらも存在できません。
例えばこれは、生命としての男女の関係にも例えられます。古来より男性は陽、女性は陰としてのイメージが持たれてきました。そのためお内裏様は陽、お雛様は陰となります。
さらに古来、「君子南面す」といって、帝王は南を向いて座るものとされてきました。するとお内裏様から見て左手が東、右手が西、背後が北となります。
太陽が昇る東は陽、沈む西は陰と考えられますので、向かってお内裏様は右、お雛様は左に飾るのが自然な形となるのです。
(図も出します)
これらの工夫がお雛様の七段飾りに現れていますので、詳しくはこちらをご覧ください。(現代の名工ページへのリンクを貼る)
お雛様の歴史はどのように始まったのでしょうか。その答えは一つではありません。
長い時間をかけて、日本のいろいろな文化や季節の儀式などが合わさり変化しながら、
今のお雛様の慣習が作られてきました。
3月3日のひな祭りは「上巳(じょうみ)の節句」とも言われ、平安時代に始まりました。
貴族たちによって3月の最初の巳の日、つまり上巳の日に、女の子のための無病息災を祈願するお祓いがおこなわれていました。紙人形(ひとかた)や土、草、わらなどで作った人形にお供え物を添え、厄災を引き受けてくれるよう願いを込めて、川や海に流しました。この文化が次第に庶民にも浸透して、広く行われるようになったのです。農民の間では、農作物が無事育つように、人形(ひとかた)を撫でて穢れをうつし、水に流していました。
この上巳の節句は中国から伝わったもので、「桃花節(とうかのせつ)」とも言われました。ここから桃の節句とも呼ばれています。
もう一つのお雛様の由来に、「ひいな遊び」があります。紙やわらなどで作った男女の人形で、宮中の貴族の子どもたちがままごと遊びをしていたようです。平安時代に書かれていた源氏物語にも記述が出てきます。
この上巳の節句とひいな遊びが次第に合わさるようになり、今の形に近づいて行きました。
時代が進み、宮中で行われていた雛遊びは、京都から江戸へと伝わります。江戸の活気ある武家・町人文化の風俗の中で、人形作りは盛んになり雛市も開かれていました。
この江戸の豊かで比較的平和な時代に、立ち雛以外に座り雛が生まれるなど形が変化したり、色鮮やかな加工方法や技巧が考案されたりなど、お雛様の文化は職人たちの手によって華やかに変化していきました。
高砂人形は、共に白髪になるまで仲むつまじく添い遂げることを願って
結納などの夫婦和合と、還暦祝いや敬老の日など長寿の祝いに贈られる縁起物です。
夫婦仲良く「お前百(掃く)までわしゃ九十九まで(熊手)」とそれぞれの手に熊手と箒をもち、
互いの長寿を願います。
おじいさんが持つ熊手は、福をかき集め、おばあさんが持つ箒は、厄を祓い、寿福を抱くという意味があります。
高砂の由来
結婚式などで謡われるめでたい能の曲「高砂」の中に、「相生(あいおい)の松」という伝説の松があります。「高砂」のおじいさんとおばあさんは「尉(じょう)と姥(うば)」といい、二本の「相生の松」の精として能の中に出てきます。
「相生の松」は、兵庫県の高砂神社の「高砂の松」と、大阪市の住吉大社の「住吉の松」の2本を合わせてこう称します。
「遠い地にあっても、夫婦のようにお互いを思う気持ちがあれば、心を通わせられる」
ということから、二本の松は合わせて「相生の松」と呼ばれていました。
高砂人形では能の「高砂」と同じように人形は能の衣装を着て、おじいさんは住吉の松の精、おばあさんは高砂の松の精として、互いの長寿と夫婦和合を祝って舞う姿を表現しています。
飾り方
向かって尉(おじいさん)を左、姥(おばあさん)を右に飾り、おじいさんは熊手を、おばあさんは箒を持ちます。
互いにやや内側むきに置くと、夫婦仲が良いように飾れます。
昔、中国の玄宗皇帝が病の床についてたところ、ある時夢に、鍾馗(しょうき)と名乗る力強い鬼神が現れ、病魔の鬼たちを退治しました。
夢から覚めた皇帝の病は癒えており、皇帝はすぐに有名な画人にその鬼神の姿を描かせました。その絵は邪気を祓う効力があるとして、世の中に広まりました。
鍾馗の姿は大きく、濃いひげをはやし、黒衣姿に剣を帯びています。
この鍾馗の姿は日本へと伝わり、今では関東を中心に五月人形として端午の節句に飾られます。五月人形としてでなく、鍾馗の像や絵は守り神として様々な祭りや場所に飾られたため、五月人形としても贈られるようにになったのかもしれません。
飾り方としまい方は、鎧兜などの五月人形と同じですので、こちらをご参考ください。(リンク)
正月の羽根付きで使う羽子板や、飲食店の店飾りとなっている羽子板と飾る意味が違う板なので良くはないと思います。
本来、暮物といい、歳暮として、やり取りされたもので、破魔矢と呼ばれたお姫さまを描いた掛け軸が、親元の他親戚やご近所から贈りものとして、たくさん集まり、暮れの時期からそれを床の間いっぱいに下げて、お正月を迎える風習で、暮れからお正月にかけて行った新生児に対しての鬼除けの儀礼です。歳暮の意味である無事に新しい年を迎えられるようにという情意も込められています。
正月飾りは様々あるけど…
【飾る時期】
昔暦を一二支で表わしました。この一二支出言うと、一二月が丑の月、一月が寅の月にあたります。
丑寅この言葉を別な言葉で言いかえると、鬼門です。
鬼が出入りする方位として、建築物等でも忌み嫌うのですが、この場合時間の空間の中で、鬼が出入りする時間と称して気を付けた先人たちの知恵だと感じます。
この時期は、一年の内で、季節の変化の一番激しい時期。
冬至冬中冬始めなどという言葉があるように、季節と暦が一致しない時期、そして、師走と言われるように大人たちが新年を迎える準備であわただしく、子どもに対する注意が抜けやすい時期でもあります。
新旧の暦の違いで、先人たちの思いがすべて、受け継がれているとは、言えませんが、これら羽子板、破魔弓を出し入れして頂く事で、お子様の方を振り向く機会になれば、先人たちの思いが、現代の人にも役立つのではと考えております。
お子様に対する注意喚起のため、この品物を毎年出し入れして頂きたいと思います。ですから、一般的に12月中旬から1月中旬位までがお飾りの期間となります。
少し立って節分を過ぎれば、お雛さまを飾るのですから、昔の人達がいかに大切に一つ一つの飾り物に思いを託し、小さな命が強くなっていくまで、大人たちが厳重に見守ってきたということ感じられます。
それから思いにも区別や役割をはっきり持たせてきたと感じます。この飾りものは、厳しい季節変化を無事乗り越え新しい春を迎えてほしいという強い思いから生まれた産物なのです。そこで、熨斗紙には、歳暮と書きます。
【贈る人】
初正月を迎える赤ちゃんに贈られる破魔弓や羽子板は、
祖父母や叔父叔母、仲人、親しい友人などから贈られてきました。
【飾り方・収納】
頂いた暮れものは赤ちゃんの鬼除けですから、赤ちゃんが住んでいる屋敷にという考え方でよいと思います。
収納する場合は、晴れた乾燥した日に、湿気の少ない場所にしまいましょう。防虫剤はほとんどいらないようにも思いますが、ボール箱とケースの間に少量入れていただけばよろしいかと存じます。
五月人形や鯉のぼりは母方の実家から贈るのが一般的ですが、
地域によっては雛人形が母方、五月人形は父方の実家から贈る場合もあります。
近頃では実家から離れて暮らすご家族も増えましたので、
両家のご実家が相談の上で費用を折半することも多くなりました。
費用はご実家持ちで、選ぶのは赤ちゃんのお父さんお母さんというケースも増えています。
5月5日のお祝いは、男の子の誕生を祝い、幸せな将来と健康を祈ることです。
ですから、誰が買うかという点でトラブルにならないよう、
両家のご実家とお話しされて、赤ちゃんの幸せを一番に考えて親族みんなでお祝いしましょう。
次男、三男が生まれたら五月人形(鎧、兜)はどうするの
五月人形(鎧、兜)は生まれた赤ちゃんの代わりとなって厄災や不幸を引き受けてくれるために用意していただいています。
ですから、是非小さいサイズなど無理の無い範囲で、
その赤ちゃんの身代わりとなってくれる五月人形(鎧、兜)を一人一人に用意してあげられればと思います。
「端午の節句」は「尚武の節句」とも言われ、
男の子がたくましく立派に成長し将来の受験や就職、結婚などがうまくいき、
人生の幸福に恵まれるようにという気持ちを託して五月人形を飾ります。
鎧兜などの五月人形は、贈られた赤ちゃんの代わりとなって厄災をひきうけてくれる、
贖物(あがもの)や撫物(なでもの)の役割をもっています。
屋内に飾られた人形の前で、誕生した男の子に思いの深い人たちが集まり、
食事会をするなどしてお祝いをします。
飾る期間と収納について
五月人形(鎧、兜)は一般的に3月下旬~4月中旬くらいに、
遅くても4月29日までには飾りはじめ、こどもの日を過ぎたころにしまうとよいでしょう。
収納するときは鎧兜が湿気にさらされないよう、
カラッと晴れた日を選んでください。
天気が悪い日は湿気が多いのでカビの原因となるおそれがあります。
柔らかい布や羽根のはたきでホコリを優しく払いましょう。
素手で触ると手の脂がつくので手袋をするとよいでしょう。
小物は柔らかめの紙やティッシュペーパーで包んで、
はじめに箱に入っていた状態にもどします。
飾るときに箱の写真を撮っておくとスムーズです。
箱の空いた隙間には紙を丸めてふわっと詰め、
箱を動かしたときに壊れないようにします。
防虫剤は人形用のものを少なめに、一種類だけを使用します。
収納場所は湿気が少なく日が当たらない、押入れの上段やタンスの上がおすすめです。
五月人形(鎧兜)を飾る5月5日の端午の節句には、
生まれたばかりの赤ちゃんを守ってくれる武者人形や鎧兜を飾りお供え物をして願い事をします。
「健やかに育ち、将来、立派な人間になるように」と。
鎧兜は身を守る大切な道具であり、日本伝統の武士道精神を象徴する宝物。
また英雄豪傑をかたどった武者人形は男の子の成長を見守ってくれる、その子の守り神のような存在です。
そして空を泳ぐ鯉のぼりには、たくましくどんな荒波をも乗り越え、人生の成功を願う気持ちがこめられています。
だからこそ、一人一人に贈るのがよいでしょう。
お雛様は、赤ちゃんの災厄を身代わりに背負ってくれる、一人のお子様に一つの一生のお守りとして与えられるものです。
そのため、基本的にはお雛様を贈られた女の子が大人になり、結婚したあともいつまでも持ち続けていただけるものです。長く美しく飾れるように大切に保管してください。
お雛様を長い間出してあげられなかった時や、きれいにしてあげたい時などは、修理やリメイクが可能な人形店もございます。
人形供養に出される前に、もう一度飾ってみるのも良いのではないでしょうか。
一般的な慣習では、赤ちゃんのお母さんの実家から贈られてきました。
地域によっては父方の実家から贈ることもあります。
最近では、両家の実家が相談して折半することもあり、一概に誰が買うのが正しいとは言えません。
雛人形を買う人自体も、ご実家ではなく赤ちゃんの両親が探して購入するケースも増えてきています。
こういった慣習はそれぞれのご実家によってことなることが多いため、購入前によく相談してお打ち合わせいただくことが大切です。
お雛様を飾る一番の目的は、かわいい赤ちゃんの健やかな成長を願うことですので、柔軟な姿勢でご家族みなさんで協力して準備していただければと思います。
長く美しい状態で楽しむためには、丁寧なしまい方が大切です。
雛人形はカビや虫食いに弱いので、湿気の多い雨の日や夜は避け、晴れた日の日中にしまいましょう。
できれば手袋をしてや不敷布を使って手の脂がつかないようにします。柔らかいティッシュや筆等などでホコリを優しく払い、お顔や手を不識布などで、着物は布や紙で優しく包みます。
お人形を箱に詰め、固定するために隙間に丸めた薄紙などを軽く詰めます。
防虫剤は入れすぎると、お人形にシミや変色が起きることもあります。表示ラベルを良く見て、なるべくお人形専用の防虫剤を、一箱に1個として使いましょう。
桐やくすの木の箱などは、防虫剤の役割もするので収納におすすめです。
お人形は湿気に弱いので、箱に入れたらカビやサビが起きないよう、高い位置に収納すると良いでしょう。