正月飾り、羽子板、破魔弓など二人目、三人目のお子さんに対してはどうする・・・

正月飾り、羽子板、破魔弓など二人目、三人目のお子さんに対してはどうするの? 

お父さんやお母さんの節句人形がまだ大切に保管している、

 

または、上のお姉ちゃん、お兄ちゃんの人形がすでにある、

 

このような場合にどう考えればよいのかというご質問を受ける事が多々ございます。

 

 

暮の羽子板、破魔弓に始まり、雛人形、五月人形、鯉のぼり、鎧、兜など、

 

先ずは身祝いという考え方で節句行事の他に腹帯にはじまり、

 

生まれれば、お七夜、宮参り、お食い初めに始まり誕生餅などから、

 

七五三迄、昔は『7つ前は神の子』と言って、

 

罪も咎められない代わりに一人前扱いされないとされたその間、

 

誕生を祝い無事成長を感謝する行事がたくさん行われています。

 

 

現在でもお子様の誕生を祝い無事成長を願う心は、

変わらずその子のためのお祝い(祈祷)をしてあげるという考え方で行われてきました。

 

神社に行ってお参りをするとお札を頂いて来てお家の中に祀っておきます。

 

一年たったら新しいお札と交換するのがきまりのようです。

 

お節句品も本来お子さんに悪い事がないように願って祀る物(一年更新)を、

お家の中に神様に来てもらって飾りもの(雛人形、五月人形、鎧、兜)にお子様の厄災を身代わりさせ封じ込めてもらうというお祭りです。

 

それから一緒に並べる飾りものに願いを託しています。

 

このような形で続いてきました。

 

 

また羽子板、破魔弓の場合その縁起の力で邪気払いを願う。

 

 

昔からの民間信仰で全国に広まっている世界でも類を見ない日本独特の文化です。
これが決まりですということはできませんが、

 

一人一人のお子様に道具や身代わりを用意してあげられると、

 

本来の意味がつながると考えます。

雛人形七段飾り、十五人飾りパート3雪洞について

雛人形七段飾り、十五人飾りパート3雪洞について

お雛段に雪洞が付いているのは、なぜかという疑問もよく聞きます。

昔の結婚式は、夕方お嫁さんを迎え入れ結婚式が始まるわけですが、

式三献(三三九度)行われたのは、夜の亥の刻(現在の11時ぐらい)になったようで、

灯がないと結婚式はできませんでした。そのため雪洞を(燭台)とセットしています。

雛人形七段飾り、十五人飾りパート2屏風について、

雛人形七段飾り、十五人飾りパート2屏風について、

7段飾りの一番上には、6曲の金屏風が一双ここから始めます。

6曲が2枚で一双といいます。6×2は、12これで12カ月を表します。

この屏風の前に人が特にカップルが、並んで座ると結婚した姿をあらわします。

向かい合っているとお見合いです。

さてこのカップルお雛さまが赤ちゃんの分身ですから、十二単を着た女性は、赤ちゃんの将来の姿。男性は、直衣束帯を着た身分高い男性、(いわゆる三国一の花婿)なのです。

北半球では、北極星が動かない星で、天帝といわれる存在です。そしてその力を後ろ盾に

人間界の為政者が、天子を名乗り民衆を統治してきました。

ですから、天子は、北を背にして、南面を向って、治めるわけです。

そうした時、左手が東、右手が西になります。日の出の東、日の入りの西、これが一日一年という考え方で、一日の拡大版が一年という考え方をした昔の人は、冬至から夏至の日照が長くなる半年間と夏至から冬至の日照が短くなる半年間にわけます。

そうすると二枚の屏風の中央の継ぎ目が夏至となり向かって右側が春夏の陽(日照時間が長くなっていく)の時間、向かって左側が、秋冬の陰(日照時間が短くなっていく)の時間となります。

宮中には、陰陽師で有名になりましたが、陰陽学がありました。

ものごと陰と陽のバランスで考えていく学問なのだと思いますが、そうすると左が陽右が陰になります。

屏風も左から日が昇ってゆく伸びてゆく半年間。右が沈んでいく短くなっていく半年間となるわけです。だからその前に配されるお雛様が陰で右、お内裏様が陽で、左になるわけで、これが、伝統的な考え方です。

雛人形七段飾り、十五人飾りパート1

雛人形七段飾り、十五人飾りパート1

先ず申し上げなければいけないのは、七段十五人飾りが、ひな飾りの完成系の造形美であること。

平安の禊、祓いの文化より発し、様々な時代の変化をへて数も大きさも増えたり減ったりしながら集約し、女児の一生の幸せを願い盛り込んだひな飾りであります。

祖先たちが、宮中にあこがれ垣間見た世界をひな飾りに取り入れると(  由らしむべし知らしむべからず)、為政者の思想や、学問が裏付けされていることに気が付く、調度品の意味、人形頭の並び方等々、なぜどうしてのことが多い。

七段十五人飾りを説明する事が、ひな飾りの意味と、ひな祭りの意味に近づけるように思う。

 

 

雛人形 なぜ五人囃子だけ子供

雛人形 なぜ五人囃子だけ子供

五人囃子の童児形

 幼い子がしゃがんで遊んでいる。声をかけても振り向こうともしない。顔が汚れ、着ているものが泥んこになっているのに頓着がない。時間の経つことなど毛頭気にならない。こんなあどけない姿こそ三昧の境地なのだという。

 昔から中国では十才を幼、二十才を弱、二十才を壮、四十才を強、五十才を艾がい、それ以上は十才ごとに耆き、耄もう、たい背たいはい(たいという字は魚へんに台)というふうに呼んでいる。また七才は悼とう、五才は童どう、三才は孩がいということで各年代の呼称にそれぞれ想いがあった。そして悼と耄は、罪があっても刑を科すことがない、つまり幼児と老人は社会の外において見守ったという。

 いずれにしても幼児のあどけない無心のしぐさ、童心といえばその純真さ故に誰も憎めないし、むしろ尊いと思う。

 親王対雛を主役と考え、雛十五人揃の構成の中、組雛として欠かすことのできなかった五人囃子だけは、どうして童顔が用意されたのか、単に雛まつりの希い本願を、可愛い我が子の形代かたしろでもある対雛に穢けがれない幼な子の姿でうたい上げるためのものだったのだろうか。男女対雛を最上段に、三人官女がすぐ下の段、三段目に五人囃子、四段目は随身、五段目に供仕丁で十五人の雛は陳列されるが、五人囃子の組雛だけは唐子からこの童顔が用いられ、他の雛たちには成人した顔立ち、髪形の頭(しょう顔)が用いられてきた。

 五人の童頭は向かって左からどんずりに結ひ上げの鬢びん、大きく口を結んだ太鼓、髪がワンカ、やっこ鬢びんはり、口開きの形が大鼓おおかわ、どんずりに前下げ髪、長い下げ結びの鬢びん、ちょぼ口が中央に位置して小鼓つづみ、どんずりに長く下げ結びの鬢びん吹きよせ唇の笛、カムロの髪型で口開きが謡うたい。こうした一連の形でより広く使用され、昭和三十年頃までその形式は続いた。そしてその姿は当時はごく当然に扱われた。

 またその当時までは、親王、官女、五人囃子、随身、仕丁はそれぞれ組雛として桐箱や前硝子の飾り箱などに入れて販売され、御殿飾りや雛段飾りが十五人揃になるのを前提に自由で縦横な販売がなされた。

 やがて店頭での販売に、十五人揃の雛段飾りと飾り段用九品の雛具でのセット化販売の規格が拡がると、業界の隆盛期を迎えるが、従来の生産では間に合わず、他聞にもれず、五人囃子雛頭もワンカにやっこ鬢びんはり、つまり大鼓おおかわの型だけで五人一律の略式形がとられるようになった。十五人それぞれの頭を用いた本来の伝統は少し消え失せるかのような流れで現在に至っている(結髪・面相については頭師としても長老である鈴木柳蔵、石川潤平両氏にその確認を仰いだ)。

(つづく)

「にんぎょう日本」1992年11月号掲載

1992-11zu

雛人形 嫁にいけない

雛人形 嫁にいけない

先ず、そんなはずはありませんが、昔の人たちは、神様を敬っていましたから、

自分の家にお願い事をするために呼び出して、いつまでも引き留めておくことは、失礼なことだと考えたようです。

そこで、言ってみればお雛飾りは、祭壇みたいなもので、早くしまわないと帰れないと考えたようです。

同様の言葉で、褻の日晴れの日というのがあります。お祭りの日(晴れの日)と、普段の日(褻の日)を区別しなさい(けじめを大切にしなさい)。

そこで、娘さんにそういう事を教え聞かせないで(見本を見せないで)育てると、「お嫁に行っても立派ななお母さんになれない子になってしまうよ」、という話を、誰かが嫁に行き遅れるとか行けないなど言う言葉に置き換え、戒めたようです。

雛人形と贈りもの

雛人形と贈りもの

贈りものについて考える時、社会変化を感じます。

品物が行ったり来たり、またお包みのお返しだったり様々な形で贈りもののやり取りがなされてきました。

昔は、贈りものの値段が正確に伝わるようにという贈り物は、しなかったように思う。

半返しなどという言葉もあって、標準的には、いただいたものに対しての目安は、あったと思うが、金額がわかるという部分は、日本的では、なかったように思う。

カタログによっての贈答が商業化し、何事にも利便優先で、相手のために何がいいか考える時間の労力や相手の家まで訪問する労力を省くためにできた産物だからカタログを送って、貴方からもらった物に対してのお返しは、こういう金額だからその中で選んでくださいということになった。

その方が、好きなものを選んで頂けるからという理論で、贈る。

お返し程度の金額で、カタログの中にほしいものなど入っているわけないように思う。

本当は、どんな物でもいくらかもわからないが本人が送ってくれたら方がありがたい気がするのは、少数派でしょうか?

本論のお雛さまを送ることについて、書きます。

お雛さまは、赤ちゃんを口実にした、両家が行き来するための大事なやり取りの一つだったように思います。

昔は、嫁ぎ先の敷居は高く、理由がなければなかなか嫁いだ愛娘に会えない。

また、嫁ぎ先の舅姑を敬うよう教育されていたので、娘の立場を思いやり自分たちも様子を見に行くための贈答の一つだったようにも思う。

そこで、さまざまな行事を用意して、娘さんの不安を気使い贈りものを携えて訪問する機会だったのかなとも思う。

よく嫁方からいろいろなお祝い事の贈り物がなされてきたわけですが、(そのことについてなぜというご質問も多いようですが)実は、そこに娘を思いやるご両親の深い愛情があったのではないかと感じます。

私がこの仕事について、配達業務を行っていた頃ですから30年くらい前にありますが、お届けにあがるといろいろなご家庭がありまして、お届け先のお宅で、さまざまなご説明をして、お客様の気持ちがうまく伝わるようにと苦労したのを思い出します。

現代のように女性がはっきりとものが言える時代、特段、嫁ぐという意識のない時代(もちろんそうでないという方もたくさんおられるとは思いますが)、に於いては、赤ちゃんに対する思い(お祝)という意味に絞られた贈りものなるわけで、どなたがどのように組んで贈られても、よろしいのかと思います。

もちろん昔からのしきたりに準じて、贈答をやられることも日本的ですばらしい秘めた愛情の表現方法だと思います。

でも秘められたもの誰かが伝えてくれないと、なくなってしまうように思う昨今です。奥ゆかしいお祖父さんお祖母さん少し沈黙は金だけでなく、ご自身の思いやごじしんのちs説明をお話をしてあげてください。

雛人形をいつ出せばよいのか

雛人形をいつ出せばよいのか

雛人形を飾りだす日を尋ねられることがよくあります。

基本は、節分過ぎてからという答えで良いと思います。

後は、3月3日より数えて最低一週間は出しておきたいものです。お家の中に神様を読んでお祭りを釣るわけですから。

最近雨水に出して、啓蟄にしまうなどという事を唱えるかたもいらっしゃいますが、単に現代のカレンダーで、頃合い感があうという話で、歴史的にはおかしなことです。

明治までの、旧暦では、暦と季節が一体となってきました。立春正月で、新年となり、雨水、啓蟄、春分、清明となるわけで、春になるのは、春分彼岸が明けるのを待って飾ると25日からというところだったようです。桃の節供は、桃が咲く頃のことで、辰月に入り地上に水があふれ、蛇が脱皮をするころということで、別名で、上巳の節句という言葉があるわけです。まだ、氷がやっと溶け出すぐらいの雨水では、お雛様の話にならなかったというのが現実だったとの思います。暦が太陽暦に替わり正誤を言うのは、難しいと思いますが、伝統的な考え方ではないということだけは、申し上げておきたい。

ひな人形は、何歳まで飾るのでしょうか

ひな人形は、何歳まで飾るのでしょうか

理想を言えば、その命の誕生とともに身代わりを果たすための物として、用意して頂いたわけですから、ずっと毎年飾っていただきたいと思います。身祝い(そのお子様一人のために行うお祝)のため飾っていただけたらいいなと思います。

本来「祝いとは」不吉なものを避け 、吉事を招くことを表すことばで、年齢は、あまり関係ないと言えると思います。

ただお雛文化に予祝の考え方が加わり、幸せな結婚式の姿を表現した飾りを使っている現代、実際に幸せな結婚式ができた時点を一つの区切りと考えることも良いのではないかと考えます。

ひな人形の修理について

ひな人形の修理について

ひな人形がそのお子さんの身代わりとなるもの分身となるものであるというお話は、して参りました。

先ず申し上げておかなければならないのは、お雛様の修理の場合上に述べた性質上できれば交換ではなく修理したいと考えます。

ですから、一定以上の修復となると、新しい物を買った方がコストがかからないということが起きてきます。

そこで、どの程度の修繕を望むのか?どれくらい費用をかけてもよいのか?もっと根柢の部分で誰のためのお雛さまとして修理が必要なのか?

そのような事と破損状況を見せていただいて修理品としてお預かりしています。

当社で修理可能なものなのか。部品等を取り寄せたり、物によっては、メーカーに送って修理となるものもあります。品物をお持ちいただいて、見たり聞いたりしてのご相談となりますが、さまざまな修理品をお預かりいたしております。

昨今では、お母さんの人形を修繕して、お子様に使おうとか言うお客さまもいらっしゃいますが、もともとは、形代の意味で用意しているものですから、一年一年新調したはず(お祓いの意味)の物で高価で買い替えができないので、お祭りの仕方自体を変えながら続いてきた文化です。

唯、根本のお雛さまは、赤ちゃんの身代わりに用意して、厄災を代わってひきうけてくれる贖物(あがもの)的なもので使い回しは、しないきまりのものなのです。

(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

贖物(あがもの)とは、祓 (はらい) のとき,罪やけがれをあがなうために神に差出すもの。または身の災いを人形に負わせて水に流し,災いをはらうもの。

お雛様片づけ(保管)について

お雛様片づけ(保管)について

お雛人形をかたずけるときの注意事項をまとめてみました。

ほこりが付かないように注意

人形をしまう時には、空気の乾燥した日を選んで、羽根バタキでやさしくほこりを払い落とします。こまかい部分は歯ブラシもよいのですが、唐織りの生地などほつれ易いものもがございますので、端の方で、試してからお使いになるとよいでしょう。 箱の中にしまう時は、柔らかい布や紙でそっとお顔を包んで、おしまいください。手や指で直接人形の顔に触れると脂が付き、そこにシミが付きやすくなるので注意しましょう。顔は、どうしても傷や汚れが目立つ場所保護して頂くようお願いします。樹脂の手の場合あまり心配ないのですが、木彫や、練り物の手な場合破損しやすいので、ぶつかりあわない様に気をつけてください。

形くずれを防ぎましょう

箱におしまいになるときには、衣装着人形はたもとのふくらみがつぶれないように、裾がおり曲がったりしないようにパッキンを入れます。柔らか過ぎても、詰め込み過ぎることになりますから適度な硬さの紙をやわらかく丸めて詰めてください。納入されてきた状態を写真で撮っておくのもよい方法かと思います。御家庭内の移動でしたら、型崩れしないように置いた状態を補助する程度の紙詰めで十分かと思います。

保管場所は湿気のないところ

箱に収めた人形は湿気のないところにしまいます。納戸や押入れの上段、あるいは天袋など家の中の高い所に保管します。 湿気は人形の敵です。湿度が高い所にしまっておくと顔や衣装にカビがつきシミになったり衣装が変色したりすることがあります。この為桐の箱のご用意がございますのでご用命ください。

防虫剤の使い方に注意を

人形の保存に適している防虫剤はナフタリンを原料にしているものです。人形専門店で販売しているものを使用すれば安心です。パラジクロル製剤やしょうのう製剤など、他の防虫剤と併用するのはやめましょう。また、前回使用した防虫剤と別系統のものを使用するのも避けて、毎年同じ種類の防虫剤を使用してください。 防虫剤は使用法を確かめて、適量を直接人形に触れないように箱の中に入れましょう。一般品(正絹の衣装でない)の場合衣裳に虫が付くことは、あまりありません。むしろ入れ過ぎることで、お顔に薬剤が凝結してのトラブルがございます。

防虫剤の入れ過ぎにはくれぐれもご注意ください。

 

雛人形 レンタル

雛人形 レンタル

これは、ひな人形の意味が全く分かっていない業者が行っているのかもしれないが、一般には、季節感を出すためにお雛段が飾りたいという企業向けに行われている。

これは、お雛様のレンタルでは、なく唯の飾り物としての人形のレンタルということです。

お雛さまが、「人がた」であり、赤ちゃんの分身であり、身代わりであること、そして、目には見えないが、お子様のために将来の幸せを託され、厄災を代わって受けてきたお人形は、普通の品物とは、違っていると思う。

だからあまりよく意味は、分からないと言いながら、供養しないと捨てらえないといわれているわけです。

日本人の心の中にある信仰心は、お雛さまをただの物体としては、見ていないわけで厄災を代わってもらったお人形は、ただのゴミとしては捨てられないような物である。

ましてその思いや厄災をレンタルで引き継ごうという人は、考えにくいように思います。

ひな人形 右大臣と左大臣

ひな人形 右大臣と左大臣

ひな祭りの歌にもあります右大臣ですが、お雛段の中の位置7段飾りの中段4段目に配置されています。年功序列が当然の時代背景老人が官位の高い席に座っているのが自然。左尊右卑が宮中の冠位順序なので、向かって右の席が位の高い席になります。また、人形界で伝わってきた装束を考えると武官の衣装である事、お顔の口開きが向かって右側、口結びが向かって左側など、いろいろな事を考え合わすと、どうやら、右大臣左大臣ではなく、仁王様などと同じように神社仏閣の入り口で、悪いものを寄せ付けないように配置された、随身門が本当であるようです。お雛さまをお守りするために随身門にあやかろうとしたというのが無理がない解釈のように思います。。

日光~鎌倉の旅♪: 隋臣(ずいじん・ずいしん)

隋臣(ずいじん・ずいしん)

隋臣(ずいじん・ずいしん)
一般には、右大臣・左大臣とも呼ぶが実際には衛仕であり、武官。

雛人形と六曜

雛人形と六曜

お雛様の配達日や、飾り始めの日を気になさるお客様は、意外に多いようです。

もちろん縁起ものだから気にする。

贈りものだから気にする。

日本人の美徳、相手の事を気遣う精神に於いて、相手が気を悪くするかもしれないから、自分もちょっと気になるから、そういう方たちは、是非気にしてあげてください。

せっかくの贈りものですから。

でも、もともと上巳の祓いは、よくないからお祓いを行ったので、大安吉日に行ったわけでは、ありませんので、ご安心を

ひな祭り

ひな祭り

ひな祭りの起源は、大昔で、源氏物語の須磨の巻などに上巳の節供についての描写があります。

そこには、等身大の藁で作った人像を船で流したお祓いの行事であることが、垣間見えます。

その後も高貴な方たちの由帷子を使ってのお祓いの話や、室町時代の撫で物使いの話など、八百万の神の国らしく、神様に、悪い事がないようのお願いするための贖物を用意する文化であったと考えられます。

同時に室町に入ると貴族の中でそれらひとがたを愛玩する文化(姫様たちのままごと)が始まりました。

このことによって、お雛さまは、段々立派なものとなり、毎年更新することが難しくなったと考えられます。

そこで、その無病息災への思いを叶えるため、屋敷に神様に来ていただこう、そのための工夫が、お家の中の聖域(結界)が赤い毛氈であり、床の間であったと考えられています。

江戸時代に入って身分制度が固まる中、大名や大商人といった人たちによって、お雛文化は、発展しました。

そういった人たちが、自分の娘や孫娘に自分より豊かに幸せになって欲しいと願う時、予祝の考え方が入ってきたように思います。

予祝とは、幸せは、急に来ないもの、お祝いを重ね待っていることでやっと来てくれるものだという考え方で、将来の幸せな結婚を祈念して、ひな飾りに赤ちゃんの身代わり(分身)であるお雛様が幸せな結婚をした状態で雛飾りにするようになったと考えられる。

だから、身分制度が固まった江戸時代では、自分より地位の高い人たちとの婚礼(究極は、将軍様か天皇陛下))となるのでしょうか、そういった三国一の花婿(立派な衣装を着せたお内裏様なる人形)を金屏風の前に(自分の娘、孫娘にお内裏様に釣合いのとれた衣装を着せたお雛様なる人形)分身と対で飾ることで将来の幸せも合わせてお願いするようになったと考えられる。

丁度皆さんが神社へ言って神頼みをする時、色々と一度にお願いする(日本人的思考)ように、せっかくお家に神様に来ていただいているのだから、色々な人形や道具に思いを託して、ひな飾りを作り、赤ちゃんの無事成長、将来の幸せなど考えられることを、お家に来ていただいた神様にお供え物をしお願いするお家の中だけの小さなお祭りであり、毎年その子のためにやってあげる身祝いとして続けていただいております。

Beginning of a Girl’s Festival, there is description about Jiyomi’s seasonal festival in Maki in Suma of the Tale of Genji in ancient times.

The thing which is an event of the purification ceremony let run by ship can have a glimpse of the person image made with life-sized straw there.

I can think it was the Bunka when shokumono of the purpose I’ll request which is so that there were also no things bad for God appropriate for a country of a god of eight million such as the fact that you’re conducting traditional ceremonies to expel evil spirits and an account of stroking thing usage in Muromachi era using people’s high way mail after that is prepared.

When I enter Muromachi at the same time, it’s in the aristocrat, that and others, the Bunka when a dummy is petted (a princess, playing house) has started.

Mr. chick can think it became difficult it was something wonderful and that it’s being renewed every year gradually by this thing.

So to grant expectation to the perfect state of health, it’s thought a sacred precinct in the house (boundary fence) was a red rug, and that the device for it which will have God come to the residence was an alcove.

While a class system hardens from the Edo Period, chick culture is developed by people such as daimyos and wealthy merchants.

When hoping that such people want their daughter and granddaughter to be more abundantly than oneself happily, I think a way of thinking of arakajimeshuku came in.

arakajimeshuku is something to which I don’t come suddenly and the way of thinking to which you come finally by piling up and waiting a celebration happily, and I can think Mr. chick who is baby’s scapegoat (alter ego) in a chick ornament prayed for future happy marriage, and started to make it a chick ornament in the state which got married happily.

So will a class system be a bridal with people more high-ranking than oneself (for an ultimate, generals or His Majesty the Emperor)) in the Edo Period which hardened, I can think such bridegroom unparalleled in the world (the doll Mr. Imperial Palace who put a wonderful costume on will be) to have come to request together with future happiness by displaying the (doll Mr. chick who put the costume the daughter and granddaughter could balance for Mr. Imperial Palace on will be in front of the gilt folding screen by branching and a pair.

When everyone says to a shrine and prays to God for help exactly, variously, together, please, (Japanese thought), like, because I have God come to the house hard, I make an offering to the God who entrusted expectation to various dolls and tools, made a chick ornament and had come baby’s safe growth and the case that future happiness is considered in a house, please, it’s small only in house, you’re deifying and you continue it as the personal celebration I’ll do for the child every year.

お雛さまは、誰が買う-2

お雛さまは、誰が買う-2

お雛さまは、誰が買うのが本当ですか?この質問最近多いように思いますので一言

結論から言えば、誰が買ってあげてもよいと思います。

まず、長年の慣習になっている、嫁方の実家について考えてみます。

日本の国は、農耕社会で、本家や分家、新家など、男子が家督を相続していく社会でした。

そこで、男方の実家は、家屋敷を準備してしまうわけですから、女方の実家は、お祝い事などの時の品物は、持っていく風習が出来上がったと考えられます。また逆に、お祝いの席などを男方で考えることで、バランスが取れた、品物の交換がされてきたように思います。昨今は、男女同権、夫婦共稼ぎ、各家族化が進み、男女とも公平に出費をする風潮が生まれてきたように思います。

品物は、どうであったか現在では、親元が、総て、セットでお買い求めになりますが、昔は、兄弟親せきなどが、分担して、一つのセットを買っていただいた時代もあったようです。つまり親元が、親王、兄弟が、官女親戚が五人囃子のようにして、生まれたお子さんの幸せをたくさん盛り込んでいただいたように聞いております。

現在で考えると、お子様の数が少ない、親戚の数も少ないとなると赤ちゃんにとってご両家とも血のつながりも、愛情も同様にお持ちのはずですから、若夫婦を通じて、気さくに話し合えれば一番いいと思います。ご両家で半分ずつ出し合って買ってあげようという結論が出れば、ご両家のご両親を含めた形でのお買い物もよいのかと思います。

東京からお買い物こられるお客様には、そのような事をお話しになっているお客様が見受けられるようになってきました。

本来赤ちゃんに愛情の深い人たちが赤ちゃんのために買って下さる品物です。それぞれの面子や思いもあるかと思いますが、できれば、穏やかで、前向きな相談ができれば一番良いように思います。

It’s true that who buys Mr. chick? I think there are a lot of these questions recently, so word

When saying from a conclusion, I think everyone may buy it for you.

First I’ll think about the wives’ parents’ home which becomes a long custom.

A Japanese country was agrarian society and a main branch, a branch family and Araya were the society by which the boy is inheriting a patrimony.

So because men’s parents’ home is the reason for which a homestead is prepared, women’s parents’ home can think a taken custom has been finished for the goods at time of the celebration. It’s to consider a congratulatory seat by men conversely also, and I think the well-balanced goods have been exchanged. Sex equality, conjugal working in double harness and each family-ization are developed in these days, and I think the trend the expenditure is made fair to which with men and women, too has been born.

A banker buys how the goods were by a set completely present, but a brother relative shares before, and there also seems to have been a time when you bought me one set. In other words, a banker is hearing a court lady relative did like subordinate dolls displayed at the Girls’ Festival, and that an Imperial prince and a brother had incorporate much happiness of your born child.

The connection which is also blood with both families for a baby when the child’s few relative is also few when he thinks present, affection, like, because you should have it, I think it’s best when it can be discussed frankly through a young couple. When the conclusion that I’ll share half with both families and buy it for you goes out, I think I’d also like shopping by the shape including the parents of both families.

The customer who can come shopping from Tokyo was becoming able to happen to see the customer speaking about such thing.

The goods affectionate people buy for a baby for a baby primarily. I think there are also the respective face and expectation, but if possible, it’s gentle and when you can consult positively, I think it’s best.

店舗オープン

店舗オープン

11月1日

当社展示場にで、暮物羽子板、破魔弓、お雛様の販売を始めました。

暮の12月中旬より、い月中旬までの期間、いわゆる鬼門の時間の間、

赤ちゃんに邪気が付かぬよう、羽子板や破魔弓をがざることで、鬼除けを行う習慣です。

暮の忙しい時間、お子様は、体調を崩しやすい季節となります。

羽子板や、破魔弓を飾る事が、お子様を振り返るサインとなればよいかと考えます。

雛人形 なぜ15人飾りか vol4

雛人形 なぜ15人飾りか vol4

五が十五を生む

 森羅万象、あらゆるものは生まれると成長を重ね発達をし、やがて旺んに活動し、最後は消滅し死に至る。これは動かすことのできぬ哲理で、生・旺・墓の語であらわされる。仏教の世界でいう三界の法も、親があり自分があり未来は子であるということも、三才とよばれる。過去・現在・未来という永遠の流れも生・旺・墓の繰り返しといえる。台風が発生し、次第に発達しながら大暴れをするが、やがてどこかで温帯低気圧に変化し消滅する。毎日の生活には夜明けが、そして日の出があり、日中があり、夕暮れ、日没があって、朝昼晩、つまり生・旺・墓となる。

 九星にみる九気の変化活動の流れの中で、本位図にあたるのが魔方陣であり、洛書と呼ばれるが、それは各星(気)のもつ本来の方位であり、各方位にはそれぞれ象意があることは前にも述べた。五黄はその中で中央太極に位置して、生・旺・墓をそして変化活動の栄枯盛衰をつかさどる帝王の星とされる。前号の九星の巡行循環の中で、本位図の位置を五黄土星が出て各方位に回座すると、この星の廻った方位が世にいう五黄殺の方位でその方位と中央を経て対する方位が暗剣殺の方位となる。本来土気のもつ生物を育む性質と共にあらゆる生命体を腐敗させてしまう力、つまり生殺与奪の力を恐れて大兇方位とされ、人々に忌避されている。このことは方ふさがり、方たがえなどの辞で源氏物語や他の古典に見られる。飛鳥時代に大陸文化が渡来して以来、千年以上にわたって我国の為政の中心はもちろん、兵術にも駆使されてきたのは、歴史の示すところである。本位図つまり魔方陣は、四方八方に大兇方位のない安定の時であり、魔方陣に生まれる十五の数の神秘をひな祭の呪術として用いたのであろう。

 十五人の考えが誕生した本位図の中で、四は巽そんの卦とされる。これには、整うの意味がある。生命の誕生は大極が生じたとみなされる。今年は八白が中央に回座する年だから、八白土星を大極とする人は、本位図を二廻り目の中央に入る前の年本位図四に八白が位置して整うのである。つまり生まれて十八年目に肉体も精神も旺んになり、大人の仲間入りをする。″十八才未満″にはこうした意味もあろうか。

 何れにせよ男女とも九星図の中央の時、この世に生を受け、二回目の中央に来る時成人し活動期に入り、生・旺の旺の部が始まる。特に女性には生命を生み出す力がある。子孫を絶やさぬという自然界の摂理を大切にする心がはたらいて女児の節供は良縁を得る。やがては母体になるための無事成長の願いが特に強いといえる気がする。陰暦で四月は巳の月である。巳の月をはさんで辰の月に上巳の節供があり、午の月に端午の節供があるが、巳は自然界では蛇であり、蛇が長い冬眠からさめ、脱皮をして成長する神秘に信仰が生まれ、五節供の儀礼と習合し、我国固有の節供文化に発展してきたと思える。毎年の節供には蛇の脱皮の擬(もど)きの意味があり、禊は水注ぎで身殺ぎ(脱皮)の意味があると思える。

 十干十二支九星などが盛んに用いられた時代を経てひなまつりは発展してきた。これをふまえず節供の意義をただすことはできまい。

「にんぎょう日本」1992年5月号掲載

雛人形 なぜ15人飾りか vol3

雛人形 なぜ15人飾りか vol3

1992-04zu
九星巡環

 魔方陣は古代中国の天文観察の中で生まれたといえるが、自然界に陰と陽の二元の気が充満して森羅万象をくり返し、止まないという考え方がその根幹をなしている。南北の線によって空間を三分し、東西の線によってさらに空間を二分して四分し、その四分された空間をさらに三分し、その四正四隅を入方位とし、中央を加えて九方とする。中央には大極天源の考え方があり、陰と陽の二元が相対して存在する考え方があって八方角に自然界の現象をあてはめて八卦が生まれた。相撲の行司が「はっけよい」と、声をかけるのはそのことからきているそうだ。状態は十分だ、頑張れと力士に休みない格闘を促す掛け声と考えるが、力士が力強く方円の上俵を踏みならすことで、神々に自然の季節の循環が順当にと祈願を促す呪いとしての意味もあるのかもしれない。

 八方位に自然界の見たままの現象をあてはめて考えた図に河図(かと)と呼ばれるものが洛書の以前に考えられており、これを先天方位という。また、九方に一瞬の間断ない自然界の変化活動のきまりとして現象をあてはめたのが洛書、つまり魔方陣でありこれが後天方位とされる。後天方位は人がこの世に生を受けてから死ぬまで自然が作用するものとされ、先天方位は人が母胎内にて受ける作用とされている。

 魔方陣は九つの数字を九星と呼んで人の星として考えられ、天象の活動作用を表すのはもちろんだが、人に作用し続ける変化活動の図とされている。九星の巡行は一界の循環が九年であり、九ヶ月であり九日間であり、さらに時刻もそうである。九星にはそれぞれ一白水星、二黒土星、三碧木星、四緑木星、五黄土星、六白金星、七赤金星、八白土星、九紫火星という名称がある。魔方陣に図示された位置が本位であり、その図盤上の各方位の方象のもつ意味が九星のおのおのの象意となり、図示された各方位を循環する。つまり、一白は北、二黒は南西、三碧は東、四緑は南東の象意をもってのようにである。

 中央は五黄であり、太極とされ、各星が中央に回座した年が人の誕生の年にあたる。平成四年は八白が中央に巡るので、節分以降に生まれた赤ちゃんは、八白土星を本命星にもつ人として一生を過ごすことになる。ここで注意を要するのは、五黄土星が中央太極を出て八方位に回座する八年そして八ヶ月の間、強い兇方作用が生ずる。つまり五黄が中央に回座するとき人々の周囲に大兇方作用が及ばぬことになる。その図が本位図であり魔方陣となる。人々は魔方陣に生じる十五という数字に安泰を求め、自然界の作用の魔詞不思議をひな段の信仰の呪術にかえたと思えるのである。

「にんぎょう日本」1992年4月号掲載

雛人形 なぜ15人飾りか vol2

雛人形 なぜ15人飾りか vol2

1992-03zu
ひな15人は自然界の営みを表現

 科学万能の現代生活にあっても、多くの人々が年末年始の時期には、日記と共に運命暦を買い求める。運命暦は、あるいは毎年の定着したベストセラーといえるのかもしれない。そしてそれは、人々の誰もが心のどこかで明日への不安と闘いながら毎日の生活を続けている証といえるだろう。気やすめといいながらも、何かを心のより処にしたいのが人情というもので、そこには昔も今もない。深い深い心の底では、自然界の大きな営みの力を知らず知らずのうちに怖れているのかも知れない。

 魔方陣は、その大自然の目に見えぬ営み、運行作用を数字におきかえて具体的にし、その原理を示すもので、その数理の法則は四千年以上の時を経て科学万能の時代の今日に至っても万古不易、宇宙の鉄則とされている。

 魔方陣を構成する一から九までの数字はそれぞれの性質をもつ生命エネルギーと解釈できるが、一つ一つが独立して存在するのではなく、便宜的に九つの種類に分けただけのことで、一体となって、限りなく、循環作用し、自然界を支配することになる。私達のすぐ身の周りが電波や磁界作用、肉眼で見えぬ限りない色々な素粒子のとびかう空間であることを感じつつ、魔方陣の数字の各々の循環の順序と原子核を中心に廻転する電子の軌跡とが同じ様子だと聞かされると驚く。そして目には見えぬその作用を何となく理解することができるだろう。

 洛書は魔方陣が揚子江の治水の際に現れた神亀の甲羅にこの図が発見されたという起源に因んでつけられた名称といわれている。広大な国土を治めるために天文治水に心を砕いていた古代中国の話だ。

 魔方陣の縦、横、斜の各数の和が十五になるという摩訶不思議が雛飾りの様式にとり入れられたのは、江戸時代の後期と考えられる。江戸中期の奢多禁令を経て、座雛の形が小型を余儀なくされると、その見栄のために雛の数がふえ、調度も多種多彩となり、その飾り付けは拡がりを見せ、雛壇の定着、雛段数の増加があった事は容易に考えられる。明治の改暦以前の社会では、紀年月日は勿論、方角や時刻等々に干支があてられ、生活の隅々にまで及んでいた。また、徳川三代に仕え、その影響頗るだった天海僧上の天源術を始め、江戸幕府の為政にまつわる中国哲学思想の波及は、一般階層の魔方陣の魔訂不思議への理解が容易な土壌だったといえるだろう。

「にんぎょう日本」1992年3月号掲載

雛人形 なぜ15人飾りか vol1

雛人形 なぜ15人飾りか vol1

なぜ15人か?魔方陣の図

- 込められた心を考える -

ひなだんという呼称は、雛段飾りからひとり旅をして、国会議事堂のひな壇や、さまざまな会議場お祭広場のひな壇であったり、構築物や事象の形容にも用いられて活躍。地についた日本語としてひとり歩きをしている。そのことを考えると、雛づくりにたづさわる者として肩身の広い思いがする。

そして、その仕事に自信を持ちたいものだと思う。

雛は日本国有のもので、世界に冠たる人形の文化として誇りを持ち続けながら仕事をしていきたいものだと思うのだ。かつて、米国の民族学者F・スタール博士はそのことに触れ、ついで日本人は誰もが雛と人形のちがいを知っている、と指摘されていたのは随分と昔になる。

心の時代が唱えられて久しいが、天竜寺の平田晴耕老師は、心を考える時代だとおっしゃる。今こそ長く受け継がれた雛をわが国固有の文化として捉え、祖先たちの注いだ心を知り、雛に込められる心を考える時代が到来しているといえるだろう。

ひなまつり、雛の節供の由来については、いろいろな解説がなされ、その発展の経緯に関し幾多の考証があって、ひとつ、雛学と呼んでもよいのかも知れないほどだ。しかし、ひなまつりの祭神にあたる雛段飾りが、かたちを整えて今日の発展を見た現在でも、そのかたちの主役というべき十五人揃の構成は、単につよい民俗信仰に支えられ、普及してきたと思われるだけで、そのはじまり、その人数の定着にふれた文献資料、その解明などは見当らない 人形史の流れのうちでいわば、盲点といってもよいだろうか。その数の根拠を訊かれて雛飾りに注がれた心を知って、その答えは用意されたい。

十五人揃雛段飾りには、すぐれた様式美があり、その構成にはひなまつりの完成された文化の香りさえある。正統派の雛飾りとして、雛人形にたづさわる者はあらためて認識を深め、自覚しなければ、ゆめゆめ業界の発展はゆるされまい。

すぐれものだけが時代を超えて残るのは真実だ。憶測が許されれば、十五人揃発祥に思いを寄せたい。

(次回は魔方陣の図にその答えの一つを求めて―)

「にんぎょう日本」1992年2月号掲載

 

 

 

雛人形 お雛さまは、右か左か

雛人形 お雛さまは、右か左か

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一陽来福、今それは、歳旦の日の出の一瞬を指していうように思う。大晦日の暗闇の時間を待って、御来光を浴びた瞬間から年が改まる。人々は素朴に時の流れを感じ、白い息を見つつ太陽の光と熱に感謝の念を抱き、新しい力を宿す期待をもって手をあわせる。

しかしこれは、厳密には冬至を指していうことば。冬至の日は太陽が最も斜めに照らす日で、昼間が最も短いため、最も弱い太陽となるわけだ。その後次第に光と熱を増しながら、昼間が長くなってくる。太陽の光と熱は穀物の成長に欠かせぬものだし、人間の生活も明るい暖い春の光への期待があつて、冬至が一陽来福の日、その萌しを春に向ってつなぐ日とされた。

夏至から少しずつ夜が長くなり、陰極って陽が萌す原理で、冬至を年の始めとする冬至正月の暦が、中国の周の時代につくられている。

我国では明治の改暦以前、年号や方角、時刻などを十干十二支で表わした。十干十二支は植物の成長の様子を表わすものと孝えられるが、陰暦でいう十一月は子の月であり、五月が午の月となっている。子の字は陰と陽の交りを表わし、時刻としても昨日のおわりと今日のはじめが重なつて子の刻がある。

また、午は昼の十二時を指す正午として今でも使われている。地球上の南北を示すのは子午線だが、一年の冬至夏至を結ぶ線も十二カ月が円形に廻る図式では子午線と呼んで暦の上では大切にされた。

蓋、子午線は古代の中国哲学の原理である陰陽思想の要素の一つになっている。陰陽というとかび臭く・古い考えと思われるが、実は天文観察から生まれていて、意外に科学的で奥深く究められ、自然界の摂理を文字に置きかえて現代の我々が読んで新鮮に感ずることが多いのに驚く。十二月の図を陰陽で表わすと、子午線を軸に右まわりをすると右半分、つまり冬至(子)から夏至(午)までが陽の気候であり、午から子の月に向つて陰の気候になる。そして、一日の動きにもそれがいえる。

方角方位として考えると、子が北で午が南となり、十二支を配当すると東が卯、西は酉、北東は丑寅、南東は辰巳、北西は戌亥、南西は未甲となり、方位と時刻月次が同会する丑寅は鬼門、辰巳芸者、いぬいの蔵など、今でも時々耳にする。卯は東で、卯辰は太陽の昇る刻限だ。酉は西で陽が沈む。

人の世のさまざまが写し出されていると考えられる雛の世界にこのことを当てはめてみれば、対雛の男雛を陽、女雛を陰とする見方は容易だし、対雛の鎮座の位置の自然の姿が解る。因みに、何人も絶対に曲げることを赦さぬ仏像の儀軌によると、その左手は慈念手、右手は悲念手とも呼ばれ、仏教の原点の慈悲の心を意味する。慈は如来の心で父親の愛であり、悲は普く包む観音菩薩の心であり母の愛を表わすとされる。対雛の男女の位置について、右か左かどちらが本当なのか問答は多いが、数年来私はその答を迷わぬことに決めている。

「にんぎょう日本」1992年1月号掲載

 

 

 

ひな祭りと雨水について

ひな祭りと雨水について

何代も以前の祖先たちが、生活の基準として千年以上に亙、従ってきたもともとの原理に照らし、私たちに伝えられた数々の祭りや習わしを、読み取らねばならない。

初節句を迎えた女児のために飾るお雛さまは、毎年迎える雛節供に向けて少なくとも明治の改暦以前には、二月の春分彼岸会(中日をはさんでの三日間)が済むのを待って、雛建が(三月三日の節供に向けて、雛飾りをする)があった。

ごく最近、二十四節気で一月の節中雨水が雛建の日で、二月節気啓蟄の日お雛飾りをしまうのが昔から伝わってきた雛人形解説を聞く、しかしそのような説は、伝わっていないのが事実といえる。

明治の改暦後の暦では、正月の節気雨水が二月の月中頃にあたり、旧暦二月の啓蟄は、新暦では、三月の六日頃に当たるので、現在の三月節供に準じ当てはまる故と考えられるが昔からの言い伝えにあたらぬ。

大戦後かなりの期間、各年のお節句には、新暦の節供、旧暦の節供の地域が存在した(現在も旧暦や、月遅れの地域がある)。業界でも、新旧地域向けの対応が続いたのは、記憶に新しい事である。

ただ桃の節供の季節感は、昔の呼び方で三月は辰の月といい文字通り自然界に水があふれ草木が勢いよく大地を覆う。

上巳の節供の元々といわれる、巳(蛇)が冬眠から覚め命がけの脱皮をすることで成長をする姿の神秘を昔の人達は、吾身のけがれを祓うみそぎと重ね、生命を生む力を授かってきた女児の節供に結び付け、大切に女児の祭りとして祝ったに違いないと考える。

世代三代の意味 -七段飾りを読み解く13-

世代三代の意味 -七段飾りを読み解く13-

伊勢の遷宮の際に、新しい橋がかかると渡初式(わたりはじめしき)が行われます。

この渡り初めには全国から3世代そろった元気な夫婦が呼ばれます。老夫婦、子供夫婦、孫夫婦が新しい橋を東西に渡り、長寿の橋を祈願するのです。

伊勢神宮

世代三代の三人仕丁は、一人前になるまでの人間のあり方を伝え、長寿への願いをこめたものといえます。

彼らも三人揃ってこそ意味をなす、ひな壇の大切な組雛です。