ひな祭り(雛人形)について一言

ひな祭り(雛人形)について一言

初節句(雛まつり)について書いてみます。
まず、新生女児が主役で、家族親族で行って頂く、小さなお祭りです。
町の大きなお祭りは、住人が大勢かかわって、神輿を奉納したりと神社に出向いて行いますが、おひな祭りは、お家の中に神様に来て頂いてその子のためのお願いの機会をつくります。
そのため、赤い毛氈を敷き、お供え物をして、お家の中に聖域を作ります。
その上(赤い毛氈)に赤ちゃんの分身となるお雛さまとお雛さまが幸せになりますようにとお願いを込めた供の人形をを並べます。
一つ目に大事なことは、おひな祭りの起源が、禊、祓いの文化であったということです。
新生女児が、「撫で物」という言葉がありますが、お雛さまに触れる事で、目には見えない厄災をお雛さまに移し、代わってもらおうという考え方です。
このお雛さまを、箱にしまう事で、厄災ごと封じ込めて下さいとお願いをします。
次に、お雛さまが赤ちゃんの分身と言いましたが、お雛さまを幸せにすれば、赤ちゃんが幸せになるという考え方です。
せっかく神様に来ていただいているので、(ついでにと言っては、いけないが、あれもこれもお願いするのが、日本人の習性です。)お雛さまが幸せになった姿を雛飾りにして、配置することで、一緒にお願いしていきます。
予祝という考え方ですが、幸せを願い、お祝を重ねていくといずれ本当にその幸せが、本当に実現するというものです。
だから、お雛飾りは、新生女児の未来予想図ともいえるわけです。
もう一つ大事なことは、「直会」という言葉がありますが、(直会(なおらい)とは、神事の最後に、神事に参加したもの一同で神酒を戴き神饌を食する行事(共飲共食儀礼))お子様のために食事会を行ってあげていただきたいのです。

お人形とお雛様の違い

お人形とお雛様の違い

人形は、読んで字のごとく人がた(人の形をイメージした物)を指します。
特定の人(新生女児)の身代わりとなる人がたと定めた時点でお雛様となると言える。
だから、雛という言葉は、色々な場面で使われていますが、雛人形というものは、特殊で尊いものとして、
様が付けられる。たとえば、つるし雛(お願いを形にしたぬいぐるみ)が脇飾りとして、扱われているのは、(特定の人(新生女児)の身代わりとなる人がた)ではない、そのためです。様々な人形がありますが、それらの人形を指して、お雛様とは言わないのです。

雛人形七段飾り、十五人飾りパート9仕丁について-1

雛人形七段飾り、十五人飾りパート9仕丁について-1

雛人形の世界では、その発展の中で,座雛の大きさに背丈を八寸とする発令がしかれるとその華やかさを満たすべく飾り雛の数を増やすことで充していった。
古今雛がうまれ、子供頭(かしら)に素袍(江戸期の武家の礼装)という姿の五人囃子の出現を見ると 往時 節供飾りの王道だった対雛と五人囃子の組み合わせを中心に 陽の数七段のお雛段 平穏無事を願う数の姿を示す15人揃が誕生し 三月上巳の節供の雛飾りにおひなまつりの完成された様式とされてその中心に位していった。
十五人揃七段の前に座ると 一番手前に三人そろった仕丁が並びよくみると三人三様、泣き 笑い 怒りの表情で、上の12人のすまし顔と
異なり、ユーモアということで済まそうとする人がいるしかしそうだろうか?お雛段の説明をしてきましたが、みんなお願いごと込めて飾られているのが御雛飾りだと思う。

雛人形七段十五人飾りパート8随臣について

雛人形七段十五人飾りパート8随臣について

佐藤ハチローさんの歌にもある赤いお顔の右大臣ですが、装束や雛段の中の着座位置などを考え合わせると
神社等に鎮座する随身門の矢大臣左大臣であるというのが正しいようです。赤ちゃんの分身であるお雛さまを
お守りするために、配されたお人形であるようです。
ずいじんもん【随身門】
随身1の姿の守護神像を左右に安置した神社の門。この二神は閽神(かどもりのかみ)あるいは看督長(かどおさ)といわれ、俗に矢大臣・左大臣と称される。

http://www.tripadvisor.com/LocationPhotoDirectLink-g1023407-d1386311-i29439291-Shiogama_Shrine-Shiogama_Miyagi_Prefecture_Tohoku.html

雛人形七段飾り、十五人飾りパート7五人囃子について

雛人形七段飾り、十五人飾りパート7五人囃子について

五人囃子については、子供の顔、特に古典髷の場合、向かって左から二番目のわんか頭を髪置きと言い辞書で引くと七五三と出ている。
五人林の背負った願い事は、まさに子供が無事通過儀礼をこなし成長していってくれるようにということで、成長を囃したてる人形であります。
このため、かつて15人飾りが完成する前の江戸時代は、内裏雛と五人林で飾るのが流行っていたという記録もあります。
五人林は、能楽の囃子方と唄い方で構成されているのですが、面白いのは、この中の太鼓向かって一番左なのですが、この太鼓のお囃子が付く場合神様に関する演目なのだそうです。おひな祭りには、お家の中に神様に来て頂き赤ちゃんのためにご家族がお願いをするおまつりだとい言う考え方の象徴だといえます。goninnbayasikotenn

雛人形七段十五人飾りパート5三宝について

雛人形七段十五人飾りパート5三宝について

最上段お内裏様の前に三宝そこには、とっくりと口花が飾られておりますが、本来この徳利の中は、
天地創造の神話に出てくる、「伊邪那岐と伊邪那美」の神様にお供えする御神酒で陰の酒陽の酒がそれぞれに入っており、幸せなお雛さま(赤ちゃん)の結婚を願っての予祝の一つと考えられます。

雛人形七段十五人飾りパート6飾り方お雛さまは、左か右か

雛人形七段十五人飾りパート6飾り方お雛さまは、左か右か

現在多くの地域で、お雛さまを向かって右、お内裏さまを向かって左に 飾るよう説明書も用意されている。しかし屏風の話の時にも説明しましたが、昔の考え方では、向かって右が陽、向かって左が陰という考えかたで世の中が治められていました。ですから陽の方に男性の姿をしたお内裏様、陰の方に女性の姿をしたお雛さまを配置していました。

1. 雛人形を知ることは、親と子の「心」を育てること

1. 雛人形を知ることは、親と子の「心」を育てること

ひな壇は女の子の将来の結婚式

桃の節句。
ひな壇の最上段には雪洞が灯り、宵闇の暗がりにほんのりと浮かぶ、男女一対の内裏雛。
二段目に三人官女が控える姿。
日本人から愛されてきた、ひな祭りとしての「ひな壇」は、実は婚礼の絵巻でもあるのです。
初節句を迎える女の子のために、「おだいり様」「おひな様」と呼ばれて飾られる、男女一対の内裏雛。
その美しい姿には、女の子がやがて健やかに成人して、おだいり様のような素敵な男性に出会い、文字どおり三国一の花婿に恵まれるよう、そして豊かな結婚生活がかなうようにとの願いが込められています。女の子の身代わりとして、ひな壇に座るおひな様。そのお雛様にとって、隣にいるおだいり様は「赤い糸で結ばれている将来の夫となる男性」の理想像を映しているともいえるのです。

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夜に行われていた昔の結婚式

ひな祭りの歌にある、雪洞(ぼんぼり)に灯りをつけるという節。
昔の結婚式は夜に行われていたので、おひな様も古式にならって夜の婚礼を表しています。
そのため親王(お内裏様とおひな様)の脇には雪洞(ぼんぼり)があるのです。
婚礼の儀が夜に行われていたのには理由があります。
ここで、婚礼の歴史について、江戸期に書かれた『貞丈雑記』にある面白い記述を見てみましょう。
「婚礼は夜する物也。されば古法婚礼の時、門外にてかゞり火をたく事、上臈(じょうろう)脂燭(しそく)をとぼして迎に出る事旧記にある也。男は陽也、女は陰也。昼は陽也、夜は陰也。女を迎うる祝儀なる故、夜を用ル也。唐にても婚礼は夜也。されば婚の字は女へんに昏の字を書也。昏はくらしとよみて日ぐれの事也。今大名などの婚礼専ら午の中刻などを用る事、古法にそむきたる事也」
ここでは結婚式を夜に行う理由として、「男は陽で、女は陰の性質を持つ。昼は陽で、夜は陰である。」という陰陽の考え方をあげています。
結婚式は「陰の女性」を「陽の男性」のもとに迎える祝儀なので、女性を迎え入れやすい夜に行われていたのです。
私たちの祖先たちが、婚礼にどう臨んでいたのかがわかります。
ここで大切なことは、自然界の時の流れに対する昔の人たちの考え方です。
日本人は古来、昼と夜や男と女のように、自然界にあるすべてのものを陰と陽の二元に分けることに思い入れをもって暮らしてきたのです。

中国から伝わった陰陽の考え方

すべてのものを陽(プラス)と陰(マイナス)に分ける陰陽五行の思想は、中国から伝わりました。
陰陽五行というと占いのように感じるかもしれませんが、これは自然界の見えない力を科学的にとらえた画期的なものです。
日本は季節がちょうど4つに分かれる気候に恵まれているので、季節がプラス(春夏)からマイナス(秋冬)、そしてまたマイナス(秋冬)からプラス(春夏)に循環するというイメージは受け入れやすく、陰陽五行はよく浸透しました。
陰陽思想で季節をわかりやすく分けると、一番何に役立つのでしょうか。そう、農業です。
米作りなどの農作業は、季節の変化と大きく関わります。そのため、目見えない時間や季節、方角など自然界のエネルギーの流れを読み取ることは、昔から日本人にとっては大切なものでした。
暮らしに根付いた自然の捉え方はやがて、人間の成長にも用いられるようになりました。その一つが、今も伝わる雛人形です。子どもがより豊かに、病や災いがなく成長し、良い花婿と結婚して子を成してほしいという願いが、雛人形の中に取り入れられたのです。
今、雛人形の飾り方は知っていても、様々に込められた意味を知っているお母さんは多くないと思います。ですので、お時間がある時にぜひ、ここでお話ししていることを読んでみてください。
そして毎年、お子さんの成長に合わせて雛人形を一緒に飾りながら、こんな意味があるんだよ、と教えてあげてください。すぐに理解するのは大人でも難しいと思いますが、大切に飾りながら意味を知っていくことで、女の子の心が成長していくことと思います。

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雛人形は心を育てる文化

雛というのは日本固有のものですので、世界に冠たる人形文化として、誇りを持ち続けながら仕事をしていきたいものだと常々思っています。
随分前のことですが、かつてアメリカの民族学者F・スタール博士は日本の雛のことに触れて、
「日本人は誰もが雛と人形の違いを知っている」と指摘しました。雛はいわゆるただの人形ではなく、祖先たちが注いだ心を知るためのものでもあるのです。
学校での勉強が大切にされる現代では、家での教育は薄れつつあるように感じています。
家でのしつけというものは、学校で教えられないものです。
繊細な雛人形を通して、ものを大切に扱い、良いものを見て目を養い、丁寧にしまうことを覚える。
お祝いで人が集まったら座布団やお茶菓子でおもてなしをする。
七五三をはじめ成長を祝う通過儀礼を通して、子が自分が大人になっていくのを自覚していく。
雛や節句には、このような先祖から伝わる「命の成長への心遣い」が様々に込められているのです。
全てを昔のやり方に合わせるというのは難しいかもしれませんが、「心を育てる」という意味においては、今も昔も雛人形を通して変わらず育むことのできるものです。
赤ちゃんが生まれて初節句を迎える際に、節句人形を値札だけで選ぶのではなく、
「この子が生きていく上で一番大切にしてほしいことは何か?」という思いで選んでいただければと思います。

雛人形 なぜ15人か?

雛人形 なぜ15人か?

なぜ15人か?

- 込められた心を考える -

 ひなだんという呼称は、雛段飾りからひとり旅をして、国会議事堂のひな壇や、さまざまな会議場お祭広場のひな壇であったり、構築物や事象の形容にも用いられて活躍。地についた日本語としてひとり歩きをしている。そのことを考えると、雛づくりにたづさわる者として肩身の広い思いがする。

そして、その仕事に自信を持ちたいものだと思う。

雛は日本国有のもので、世界に冠たる人形の文化として誇りを持ち続けながら仕事をしていきたいものだと思うのだ。かつて、米国の民族学者F・スタール博士はそのことに触れ、ついで日本人は誰もが雛と人形のちがいを知っている、と指摘されていたのは随分と昔になる。

心の時代が唱えられて久しいが、天竜寺の平田晴耕老師は、心を考える時代だとおっしゃる。今こそ長く受け継がれた雛をわが国固有の文化として捉え、祖先たちの注いだ心を知り、雛に込められる心を考える時代が到来しているといえるだろう。

ひなまつり、雛の節供の由来については、いろいろな解説がなされ、その発展の経緯に関し幾多の考証があって、ひとつ、雛学と呼んでもよいのかも知れないほどだ。しかし、ひなまつりの祭神にあたる雛段飾りが、かたちを整えて今日の発展を見た現在でも、そのかたちの主役というべき十五人揃の構成は、単につよい民俗信仰に支えられ、普及してきたと思われるだけで、そのはじまり、その人数の定着にふれた文献資料、その解明などは見当らない 人形史の流れのうちでいわば、盲点といってもよいだろうか。その数の根拠を訊かれて雛飾りに注がれた心を知って、その答えは用意されたい。

十五人揃雛段飾りには、すぐれた様式美があり、その構成にはひなまつりの完成された文化の香りさえある。正統派の雛飾りとして、雛人形にたづさわる者はあらためて認識を深め、自覚しなければ、ゆめゆめ業界の発展はゆるされまい。

すぐれものだけが時代を超えて残るのは真実だ。憶測が許されれば、十五人揃発祥に思いを寄せたい。

どうして女の子の節句は厳重なのか -雛人形に込められた願い1-

どうして女の子の節句は厳重なのか -雛人形に込められた願い1-

七段飾りのひな壇を飾ったことはあるでしょうか。十五人の雛人形と、たくさんの道具や飾りものを見本なしに正しく並べるのは難しいかもしれません。

どうして女の子の節句は、ここまで豪華で複雑なのでしょう。

その答えの一つは、女の子が「命をつなぐ存在」だからと私は考えています。

 

赤ちゃん

 

ひな人形には、両親、祖父母の様々な願いが託されます。

健康に育って欲しい、幸せになってほしい、良い人と縁をもって結婚してほしい。

毎年くり返し祝うことで、赤ちゃんは人間として成長し、魂は整った状態になっていきます。

 

節句というのは、絶えず「命に関する願いをする」ことが中心にそえられているものですが、

中でも桃の節句は「新しい命を生む力がある」女の子のお祝いですから、より強く健康・成長・結婚への願いがこめられているのです。

情緒を育てる大人への通過儀礼-雛人形に込められた願い2-

情緒を育てる大人への通過儀礼-雛人形に込められた願い2-

お腹の中にいるとき、親子の体と魂はつながっているといいます。子どもは胎内で、祖先の穢れ、遠い原始の祖先たちの畏れと出遭い、そんな知らず知らずに受け継いできている穢れを祓い清めるという願いも、初節句には込められているのでしょう。

 

このように、節句というのは魂の健やかな成長も促します。健康や見た目のことだけではないのです。ですからひな祭りでも、女の子の「魂」や「情緒」と呼ばれるものの発育が促されるのです。

 

古来日本では、懐胎(妊娠)をはじまりに、いろいろな成長の通過儀礼が行われてきました。とくに人の誕生から一年目は魂の成長にとって大切な時期なので、儀礼も厳格に行われます。

七つ前は”神の子”といわれるのは、まだ魂が未熟で変化しやすいというのを意味するのかもしれません。

 

懐妊

 

今はお母さんのお腹から出てきたら「誕生した」と言いますが、以前の日本では胎内にいる時点で命を授かった、つまり生まれたと考えました。そのため赤ちゃんの受胎があると、5ヶ月目の戌の日を選んでお腹に腹帯を巻いてお祝いしました。「帯祝い」と呼ばれるものです。

成長の通過儀礼は誕生(胎内)からはじまり、幼児期を経て、男女に分かれて成人するまで行われます。

 

昔は男子は5歳から9歳までの間に、女子は7歳の11月の吉日に、幼児期が終わる帯解きの祝いをしました。そこからは幼児としての扱いは終わります。難しい知識を正しく吸収でき、反応できる「社会人」としての仲間入り(氏子入り)の人格が、もうできあがったと見なされるのです。

 

儀礼のたびに、子どもは自分が少しずつ大人になっていくことを自覚し、やがて成人の式が済むまでには、肉体も生霊も完成されて一人の大人となります。

今のような”キレる子”というのは考えられず、10歳前後でも情緒も安定した人間として扱われました。

 

お雛さまの人形の中にも、心の成長段階が表現されています。成長を促す童子の顔・格好をした五人囃子や、若手(泣)・中堅(怒)・老人(笑)の3人が並ぶ仕丁。

これらの人形の意味は、大人になってやっと実感できるもの多いかもしれません。ですが、ものを大切にして毎年きちんと並べながら、お雛様に込められた願いを少しずつ教えてあげてください。そういった一つ一つが、お子様の情緒を育ててくれることと思います。

良い人と出会い、結婚できますように -雛人形に込められた願い3-

良い人と出会い、結婚できますように -雛人形に込められた願い3-

ひな壇は、昔の宮中の結婚式の様子を元にしています。この婚礼が、夜に行われているのはご存知でしょうか。

古法に従った結婚式は、亥の刻限(午後9~11時ごろ)、亥の月・神無月(旧暦10月ごろ)に行われました。華やかな結婚式のことを祝って言う「華燭の典(かいしょくのてん)」の言葉の由来も、夜に雪洞(ぼんぼり)に明かりを灯し祝った結婚式から来ています。

 

お嫁入り

 

江戸時代の「女御々入内記」の中に、二代将軍秀忠の娘、東福門院和子のお嫁入りの様子が書かれています。

和子は女御として元和六年(1620年)に入内(じゅだい)しました。婚礼の儀が行われた日、午の刻(午前11時~午後1時)に二条城を出発した和子の牛車は、一刻ほどの時間をかけてすすみ、御所郁芳門から新造された女御御殿には未の刻(午後1時~3時)に到着しました。そこで休むこと数刻(数時間)。亥刻(午後9時~11時)清涼殿に赴き、後水尾天皇と初めて対面し、そのまま常御殿に渡り、三献の儀式が行われています。

 

昔の結婚式が時間を考えて行われたのは、陰陽の考え方から来ています。「陰の女性」が「陽の男性」により良い形で嫁ぐことができるように、陰の時間である夜にいく。

その古来のよく考えられた方法で、ひな壇の結婚式も執り行われているのです。そこには「良い人と結婚ができますように」という願いが込められています。

次の次の世代の誕生への願い -雛人形に込められた願い4 -

次の次の世代の誕生への願い -雛人形に込められた願い4 –

結婚式というのは、たんに男女が結ばれるだけのお祝いではなく、次の世代の誕生を祈り、促すための意味もこめられています。

その昔、日本での原始信仰では、人は誕生する時、肉体と共に霊魂を具えてくると考えました。人は肉体だけでは生きられず、活動するには魂が不可欠とされていたのです。

婚礼の儀によって男女の霊魂が結ばれると次の生命が生まれ、死によって魂が肉体から抜け出すと信じられていました。

そうすると、ひな壇の結婚式というのは良縁の願いに加え、「次の世代に恵まれますように」という祈りも込められていると言えます。

 

次の次の世代

 

ひな壇の中には、日本創生神話にある伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美命(いざなみのみこと)の男女の神にまつわる品々や儀式がこめられています。

例えば三人官女は、婚礼の儀の進行役です。左右の女性は巫女姿で神酒を注ぎ、中央の女性は婚礼の儀の司会進行を務め、祝詞の口上を述べます。

 

現代の結婚式は「男女の愛を誓う」という形が多いようですが、もともと神社で行われている婚礼の儀の様式は、生命(子ども)の誕生にまつわる神様に祈るものなのです。

 

結婚式の形をとっている初節句には、すでに次の次の世代の誕生をも願う心がこめられているのです。

一人に一つずつの「私のおひな様」 -雛人形に込められた願い5 -

一人に一つずつの「私のおひな様」 -雛人形に込められた願い5 –

さて、現代の初節句では、祖母や母親、お姉さんたちのおひな様を飾って祝うという方もいらっしゃいます。

前述したように、おひな様にはお祝いする女の子の「結婚への願い」がこめられています。おひな様はその女の子自身です。一人のおひな様の旦那様は当然、理想としては一人であって欲しい。

その子の一生の幸せを託すものですから、”私のおひな様”、 つまり身祝いとしては、一人一飾りとして欲しいと思います。

 

お雛様

 

誕生した女の子の初節句から、年毎のひな祭りを重ねるなかで、やがて、”私のおひな様”という想いが芽生え、強く意識されるでしょう。

その想いは、日本人女性の誰もが経験することで、昔から脈々と続いてきているものです。そして女の子の一生を通して、”私のおひな様”にはいろいろな思い出や出来事を込められていのです。

雛人形  菱餅の三重 雪のいざない 

雛人形  菱餅の三重 雪のいざない 

2000-f03zu1
 大阪は新世界のシンボルになっている通天関の天辺(てっぺん)には、お供餅のようにも映る、天気予報のネオンが点灯している。
 ずっと以前から、つぶさにその様子を見物したかったが、なかなかその機会に恵まれぬ。昨年十一月、名古屋で会った大阪の赤瀬さんにそのことをお話ししたところ、お住まいが近くだそうで、さっそく夜空に映る通天閣の姿を撮ってお送りいただいた。
予報のサインは
ハレ  シロ
クモリ オレンヂ
アメ  ブルー
 それぞれの色で天候が表示されるのが、とてもユニークだが、大阪地方ではめったに降らぬと聞く雪の天侯に、予報では一体どんな色を用いるのか、興味がそそられる。それはハレの予報に雪の色といえる白を使っているのと、実は雛の座のお供えものには欠かせぬ、菱餅に伝わる色づかいにことよせていたからである。
 春は三月十二支では辰の月、辰は水を表わし、自然界に水があふれて草木の生長を助け、動物の活動が促される月。和名での月の名は弥生。太陽暦ではほば四月と思えばよい。陽気に満ちたこの月の上旬には雪の降ることもあって、人々を驚かす時候でもある。春分も通り過ぎて三春の区分では季春と呼び、現今では晩春とか暮春ともいわれる時侯に当たる。殺伐とした話で恐れ入るが、史実として陰暦三月三日の降雪に桜田門外の変があり、雪の夜のできごととして名高い。
 節のものを供えたことから、節供という言葉が生まれた。
2000-f03zu2
 三月三日。 重三(ちょうさん)の吉祥も込められた雛祭の節日には、必ず桃の花枝が雛の座に供えられ、古い昔には、婦女の共に全(まった)からんの願いから、母子草(ははこぐさ)も蒸して用いた菱餅。のちには中国からの竜舌(りょうぜつ)ばんの古俗や蓬莱の吉祥、薬効も手伝い、その緑が邪気を祓う草とされる蓬(よもぎ)を用いた菱餅が、あか(桃)、しろ、あお(緑)の三つ重ねにして供えられた。
 三重の順序は、 一面の蓬草の上に雪が積もり、雪の大地には桃の咲く風情で、あかは桃の花の未来を知る吉祥、しろは純真清浄、あおは邪気を除ける象意が注がれ、三位一体の供え物とした。加えて菱の形は、足利将軍時代からの延命長寿を願う、歯固(はがた)めの儀式の供え台に並んだ菱形の餅にならってつくられたと考えられ、季節を謳った。三重の菱餅は、雛祭を代表する供えものとされてきている。
 はじめに触れた通天閣の天気予報の雪は、自身の色である白をハレにゆずり、奇想天外と思える桃色に点灯し、表示されるのは面白い。按ずるに菱台にのせ、雛壇に供えられる、三重の菱餅の色がさねに連想が働き、雪の上に散る桃の花を彷彿とさせるのは楽しい。
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雛人形 松風と高砂

雛人形 松風と高砂

 松のとれる正月、横浜能楽堂で謡曲の「高砂」が、 一堂に会した舞台と寄席の人たちによって合謡され、その模様は謡初の催しとして、恒例の年中行事への積み重ねがテレビで紹介された。近年とみに各地で盛んになりつつある「年末の第九の合唱に対峙するものにしようとする意気込みがあり、「日本の伝統文化にもっと誇りを持とう」との強い願いもあってのことだという。新しい世紀の歩みに、日本人が自国の文化を大切にする志向への魁(さきが)けとして、その試みには背中を押される思いがする。
 さかのぼると、お能のなかの「高砂」は、特に祝儀の席で多く謡われ、より多く人形の製作にも用いられてきている。それは松の葉音を神婚の語らいとする「高秒」が将軍家の徳川の姓、松平に因む松の能として、江戸城での謡初に謡われたところに由来している。諸大名を通じて各藩に普及した謡いは、長寿の夫婦「翁と姥の縁起」も手伝い、婚礼はもちろん、ほかのめでたい席に数多く謡われ、その祝意は武家社会のたしなみとして深く根を下ろし、さらに幅広い一般の階層での生活の節目に用いられる拡がりを見た。「高砂や 此の浦舟に帆を上げて 月諸共(もろ)ともに 出で汐の…」の祝い唄は、現在でも結婚披露宴や結納の席でよく謡われ、関西地方では結納の嶋台に高砂の人形が飾られる。また婚姻願望、その予祝の意が強く込められたひな祭りでは、その祝意を寿ぐとして「高砂」が浮世人形の部の筆頭として、お節句贈答には欠かすことなく用いられている。
 演能の正式な番組では高秒は初番目物に位置され、神曲とされる「翁」に対し脇能(わきのう)の呼び方もされる。その内容から神能の部に属し囃子座に大鼓が加わり、ひな祭りの五人囃子に見る、四つの楽器の並ぶ姿で上演される 高秒は室町の前期、およそ六百年の昔、二世観世太夫、申楽(さるがく)から現在の夢幻能を完成させた世阿弥(ぜあみ)元清により作られた。物語は九州の阿蘇神社の神主、友成(ともなり)が兵庫の高砂の浦を通りかかると、松の木の下を掃き清める老夫婦に出逢う。そこで高砂の松と住吉の松が相生(あいおい)の松であるいわれは、松寿千年の御代と夫婦相生を寿ぐ譬(たと)えとの語らいを聞く。そして私たちは高秒と住吉の松の精であることを明かされ、友成を住吉で待つ約束をうける。やがて友成も舟に乗り、住吉に着く。そこには月の光のもと、住吉明神が現れ、万代の御代と国土安穏を祝っての舞を舞う。物語からは航海の安全もうかがえて天下泰平、延年長寿、夫婦和合に加え、人生航路の船出に航海の無事安全の祝意も重んじられる。「ぬしや百迄 わしや九十九迄 ともに 白髪の生える迄」と唄われる俚謡(りよう)の相生白髪(ともしらが)は、高秒の姿としてよく知られる。翁の持つ熊手は財を集め、姥の箒(ほうき)は邪心を掃き清らかにする縁起として、相生白髪と熊手、箒の吉祥が喜ばれ、浮世人形としての高秒には松竹梅、鶴亀の吉祥も添える形での製作が通念となり、長く続いた。人の一生を通じると誰にも病と老いが待っている。健康でゆとりのある楽しみが持てる老境を過ごす望みは変わることのない永遠のテーマだろう。険しい海辺の地にも根を張り、風雪に耐え、その緑を絶やさぬ松の姿に昔から人々は畏敬の念を抱き、常緑の吉祥が尊ばれるなかで高砂の曲は生まれたに違いない。松の葉風を奏でる、あの葉元の二本一束の形状も、高秒の夫婦和合のいわれとして人々は見落とすまい。

雛人形 婚礼と雪洞 vol3

雛人形 婚礼と雪洞 vol3

その昔、上巳の節句に、生児男女の区別なく祝いをしていた事実も伝わっている。
 案ずるに、我が国の原始信仰に、人は誕生する時、肉体と共に霊魂を具えてくる。やがて、魂によって人の活動は促される。
 結婚し、霊魂が結ばれることで、生命は生まれ、死によって魂が肉体から抜け出すと信じられていた。
 懐胎から始まる人生の通過儀礼を考えると、人の誕生の一年は、実に厳格になされる。それは、魂のためになされるとさえいえよう。
 七ツ前は“神の子”といわれるが、それは魂の未熟を意味するのかもしれない。
 ひな祭りでは、女の子の魂や情緒と呼ばれるものの発育が促される。帯解きの祝いをするころには、難しい知識を正しく吸収でき反応できる社会人としての仲間入り(氏子(うじこ)入り)の素地ができあがる。情緒も安定し、“キレる子”など考えられない。

- 生児一人に一飾リ -

 さて、現代の初節旬では、祖母や母親や姉たちのおひな様を飾って祝うことに懸念がもたれているが、ひな祭りに寄せる本来の観念からいえば、お祝いする女の子の婚姻への願いは無視されることになるわけだから、“私のおひな様”、 つまり身祝いとしての各児一飾りの是非は、いうまでもない。
 誕生した女の子の初節句から、年毎のひな祭りを重ねるなかで、やがて、“私のおひな様”という想いが芽生え、強く意識される。、その想いは、日本人女性の誰もが経験することで、昔から脈々と続いてきている。そして女の子の一生を通して、“私のおひな様”にいろいろな思い出や出来事も封じ込められることになる。

(3)ひな壇の婚礼
- 雪洞は華燭の典の象徴 -
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 循環する四季の十二支の陰と陽(図解参照)。
春 少陽 一月(寅)、二月(卯)、三月(辰)
夏 老陽 四月(巳)、五月(午)、六月(未)
秋 少陰 七月(申)、八月(酉)、九月(戊)
冬 老陰 十月(亥)、十一月(子)、十二月(丑)

 十二支を演出したと考えたい六曲一隻の金扉風の前、おだいり様とおひな様は、日月の暈(かさ)ね紋様・繧繝錦縁(うんげんにしきべり)の畳をのせた浜床台に座る。
 その一対の台の間には、伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美命(いざなみのみこと)二神に供え、御酒が瓶子(へいし)一対で三方に飾られる。これは結婚した夫婦とその家族や親族の絆を結ぶ陰と陽の神酒でもある。
 両側に侍る官女は、長柄の銚子、右側は提子(ひさげ)を持ち、中央は盃か蓬莱の島台を運ぶ姿で、華燭の典・式三献(ひきさんこん)の儀の模様を表している。そして雪洞は、華燭の典での夜陰の灯りを象徴したものといえよう。
 天(あま)の御柱(みはしら)を男神が左廻り、女神が右廻りをして美斗(みと)のまぐあいがある日本創世の神話に倣い、左の瓶子に雄喋(おちょう)、右の瓶子に雌喋(めちょう)の喋花形を飾る。
 二神に供えられた神酒は、まず雌喋の瓶子から提子に移し、次に雄蝶の瓶子の神酒をその上に注ぐ。さらに提子の神酒は、長柄の銚子に移され、盃に注ぐ。
 本来、両側の官女は神に仕える巫女(みこ)の姿で、未婚の女性のため眉があり、左の官女は口を開き、右の官女は口を結んでいる。
 中央の官女は待上臈(まちじょうろう)と呼ぶ年功を積んだ女性で、袿(うちき)を着て、眉がなく口を開けていのる。この女性は婚礼を司会し、祝詞(のりと)の口上を述べ、式三献の儀を進行させる。
 婚礼では、提子に雌喋、銚子には雄喋の蝶花形が飾り付けられるが、瓶子一対を入れて四丁(しちょう)を忌み、菱飾りがつく形式もある。
 宴席を同じ盃が一巡すると一献であり、廻る盃で一回(ひと口)飲むことを一度という。 一献の盃を三度に飲んで三献を重ねるので、三々九度の盃である。
 古代中国では、祝宴の席に人を迎える最高の礼が、九献であった。日本に渡りいつのころから、九献が三々九度の盃に転じたのであろうか定かではない。
ひな壇に嫁入り道具が並ぶ姿のひな祭りでは、初節句にはすでに次の次の世代の誕生をも願う心が込められているのだ。

雛人形 婚礼と雪洞 vol2

雛人形 婚礼と雪洞 vol2

さて、婚礼の刻限を確認できるものに、二代将軍秀忠のむすめ東福門院和子のお嫁入りの記述がある。和子は女御(にょうご)として元和六年(一六二〇)入内(じゅだい)しているが、午(うま)の刻(午前十一時~午後一時)に二条城を出立する流れの中で、和子の牛車は一つ刻(とき)を要して、御所郁芳(いうほう)門より新造の女御御殿には未(ひつじ)の刻(午後一時~三時)に到着。そこで休むこと数刻。亥(い)刻(午後九時~十一時)清涼殿に赴き、後水尾天皇と初めて対面し、次いで常(つね)御殿に渡り、三献の儀式が行われている(「女御々入内記」より)。
 古法に従った事録に接すると、亥の刻限、亥の月、神無月の婚礼、さらに華燭の典という辞(ことば)の由来にも想いが及ぶ。
 桃の節句。町雛として盛んな拡がりを見せたひな壇の最上段には雪洞が灯る。宵闇の暗がりにほんのりと浮かぶ男女一対の内裏雛。二段目に三人官女が控える姿は、ひな祭りとして日本人の誰からも愛されてきているが、実は婚礼の絵巻でもあった。初節句を迎える女の子のために、おだいり様。おひな様と称(よ)んで飾られる男女一対の内裏雛の姿には、やがては健やかに成人して、おだいり様のような素敵な男性に出会い、文字どおり三国一の花婿に恵まれるよう、そして豊かな結婚生活がかなうようにとの願いが込められている。
 つまり、初節句を迎えた女の子の形代(かあしろ、身代わり)とされるおひな様にとって、おだいり様は″赤い糸で結ばれている″将来の夫となる男性の理想像をないまぜにしている。

(2)ひな祭りに託された願い

 いずれにしても、ひな祭りでは初節句を経た女の子の身祝いとして、年毎の節句の度にひな人形に託して一年無病息災であることへの願いが込められてきた。
 人はよく、赤ちゃんには親を選んで生まれてくることができないというが、女の子が胎内で出遭った祖先の穢(けが)れ、遠い原始の祖先たちの畏(おそ)れを知らず知らずに受け継いできていることヘの修祓(しゅうばつ)の願いも、込められていたと考えられる。
 お祝いする女の子の成人に寄せた婚姻の願望が強く働いて、その予祝を重ねるなど、生命を宿す力のある女性の成長に対する両親、祖父母の思いはひな祭りに多くの願いを寄せている。
 もともとひな祭りは上巳の節句に包含される。五節句の上巳の節句は中国から流入したものだが、我が国では古くから巳の日の祓の思想が原点にあって、ひな祭りの祝いがなされてきた。
 巳とは蛇であり、冬眠から覚め、自然界に水が溢れてくる季節、蛇は自身の身体を脱皮して成長する。
 祖先たちはその姿の神秘を身殺(みそぎ)として感じ、災厄や穢れを我が身からそぎ落として、無病息災や清浄な心身を祈願してきた。ひな祭りの祝いが年中行事として行われるのも、蛇の脱皮擬(もど)きといえよう。
(次号に続く)
「にんぎょう日本」2000年2月号掲載

雛人形 婚礼と雪洞 vol1

雛人形 婚礼と雪洞 vol1

2000-01zu
(1)赤い糸で結ばれている私のおひなさま
 十月は陰暦では和名を神無月とよび、十二支で数えると亥(い)(猪)の月とよんだ。
 国中の神々は出雲の国に集まり、出雲以外の各地の神様の社(やしろ)は、神不在の月にあたる。それゆえ、神前での婚礼は無意味なものではと思えるのに、十月は婚礼のシーズンとされ、婚礼の知らせもこの月に重なりやすい。なぜなのか。そこには神無月の神不在を俗説として寄せつけぬほどの何かがあるのだろうか、興味をそそられる。
 そのことはさておき、婚礼の歴史を知るうえで、面白い記述がある。
 「婚礼は夜する物也。されば古法婚礼の時、門外にてかゞり火をたく事、上臈(じょうろう)脂燭(しそく)をとぼして迎に出る事旧記にある也。男は陽也、女は陰也。昼は陽也、夜は陰也。女を迎うる祝儀なる故、夜を用ル也。唐にても婚礼は夜也。されば婚の字は女へんに昏の字を書也。昏はくらしとよみて日ぐれの事也。今大名などの婚礼専ら午の中刻などを用る事、古法にそむきたる事也」。
 江戸期の『貞丈雑記』にある考峯で、祖先たちが婚礼にどう臨んでいたのかが分かる。ここで大切なことは、自然界の時の流れであろう。陰と陽の二元に対する思い入れである。
 一日に昼と夜の陰陽があるように、四季一年にも陰の季節と陽の季節の循環があり、その区分がなされる。
 月日や時刻まで十二支の数詞でよんだ昔、十月は亥(い)(猪)の月にあたる。陰暦での十月は、冬至がまわってくる子(ね)(鼠)の月を前に、一年では一番日脚が短く、夜長の時期。夜の陰の深まりが四季を通じて最も強く感じられる月であり、十二支最後の亥の月になっている。
 冬至を境にして日脚は少しずつ伸びる。陰極まれば陽に転ずるたとえの通りに、亥の月には冬至を前にして一陽来福という明るい伸展への願いがあったに違いない。冬の寒さを表したものに、「冬至、冬なか、冬はじめ」という気象用言があるが、亥の月に立冬があり、子の月に冬至が、丑(うし)の月に冬の了(おわ)りが告げられ、寅(とら)の月は(旧)正月。春がやってくるのに、寒さが続く。
 一日十二刻を十二支でよぶときにも、今日一日の了(おわ)りと明日の一日の一(はじめ)を意味した子の刻は真夜中で、夜の陰が深く、季節の冬至と同様、夜明け前の寅の刻まで夜陰が続く。ありていに申せば、四季の陰陽、昼夜一日の陰陽の区分を感じとり読み取るのは、平成の私たちにとって努力を要する。
(次号に続く)
「にんぎょう日本」2000年1月号掲載

雛人形 五人囃子の顔 vol2

雛人形 五人囃子の顔 vol2

1993-02zu
かくされた童男の理

 一から九までの数が、縦横斜め何れからもその和を十五にする魔方陣は、自然界の生命エネルギーの運行作用を示す洛書の図であることは以前にふれた。九つの数はそれぞれに色彩名が割り当てられ、人の星ともされて九星と呼ばれる。目には見えぬ時間や空間、つまり季節や年月時刻、そして中心や各方を陰と陽二元の原理に基づいてその数を配分し、各々の数に天地間の現象を置き換え、綿密な天文観祭を経てその一つ一つに象意が見出されている。これが洛書に示されて八卦と呼ばれる。「乾は天なり故に父とす」「坤は地なり故に母とす」というように、八卦は人間関係に置きかえ、さらに「乾坤に六子あり」Lして三男三女がそれぞれ位置され、少男つまり童児は洛書九星図の八白に象徴されている。

 九星のそれぞれに、さらに十二支が配当され、八白の位置は、丑寅うしとら方角で北東、時刻の丑寅はおよそ午前一時から三時、年前三時から五時をさし、丑の月は旧暦の十二月、寅の月は旧暦の正月をさす。季節に当てると、丑は冬の強い寒気であり、寅は春への移行の時に当たり、八白には変化宮つまり陰極まって陽に転ずる進展の象意を見ることができる。

 さて、十二支は本来植物の発生・繁茂そして伏蔵という循環の様子を示したもので、植物が種から始まって実を結び、新しい種を宿す状態を表わす。子は完了と一はじめを意味する種子の状態、丑は種子内で紐状に変化する様子、寅はうご(虫へんに寅)めくで地上への発芽の時とされる。

 一日の時間の流れの中では、草木も眠る丑満どき夜の闇が極まって暁に変わる刻限が寅の刻、人間の一生に見立てると母の胎内の暗黒から分娩があり生命の誕生。そして心身ともにめざましい発育を見るこの時期は童児の姿に象徴され、陰の極まりから陽への進展を司る姿として位置づけられている。

 十五人の揃雛の中で五人囃子にのみ童児形が用意されたのは、八白の象意によるものといえる。初節句には生命誕生の謳歌、成人ヘの予祝、女児の心身の新生成長進展を節句ごとにはやす。そうした役割にかくされた理は八白童男の象意であり、明治の改暦以前千余年にわたって我が国の人々の生活の隅々まで浸透した十干十二支九星など、陰陽思想の哲理だともいえる。

 いろいろな祭によせる人々の心は、その祭の行事のあり方もさることながら、祭にかくされた理でもある。理を求めずしてひなまつりの本来は、やがて失われるときが待っていよう。

 完成された形のひなづくりによせた何代にもわたる先輩たちの苦心や智恵は今でも生きている。現在その仕事にたずさわる私たちが、単なる商品と同様の製販にあたるのは、祭具としての雛本来の伝統の崩壊につながる危倶の念にかられてならない。

「にんぎょう日本」1993年2月号掲載

雛人形 五人囃子の顔 vol1

雛人形 五人囃子の顔 vol1

1993-01zu
地蔵の剃髪童顔

東大寺大仏殿の真ん前の中庭に、唯一創建当時のものとされ、天平時代の優れた文化を今に伝える金銅燈篭がたっている。

この燈篭のレリーフの美しい音声おんじょう菩薩は、童顔の姿である。盧庶那仏るしゃなぶつの正面に立つ灯りは、仏への観想の世界による配置と思われるが、私にとっては五人囃子の童児形を考える嚆矢となった。

本尊に対する声明しょうみょうの流れ、そして童顔の菩薩の姿は、対雛と五人囃子の配列を彷彿とさせる。

五人囃子の子どもの姿の果たす役割に想いを巡らすと、私たちの身近には、日本人の誰もが知っている地蔵菩薩の姿があるのに気づくだろう。

菩薩像は儀軌によって頭に宝髻ほうけいを結い、宝冠を戴き、体には瓔珞ようらく、首飾り、臂釧ひせん、腕釧わんせんそして足釧をつけ、天衣てんね、 条はく、もすそ(裳)をまとう姿が常だが、大地の慈愛の顕現とされる地蔵菩薩だけは剃髪童顔、そして衲衣のういの姿で人々の信仰をあつめている。お地蔵様と呼ばれ童謡や俚謡にうたわれ、最も親しみの深い仏といえる。

地蔵の功徳はこの世に止まらず、あの世にあっても救いの手をさしのべ、現世来世に及んで人々の魂を救ってくれる。賽さいの河原の造塔功徳をうたった地蔵和讃など、親に先立つ子どもの哀れが、聞くものの心を揺さぶり涙を誘う。子どもの守り本尊とする地蔵信仰の定着も、子どもの命への親の思いの深さによるものといえる。

さて、人の一生についてこの世に生を享けた、つまり懐胎がなされたときを生有、生存の間を本有、死期を死有と呼ぶ。また、現世から来世へと次の世に生まれ代わる七七、四十九日をさして中有と呼んで、その世界では魂魄がさまようとされるが、故人の霊魂を救い、浄土へ導くとされる仏が地蔵だ。ことに親に先立って迷い悲しむ子どもの魂を救ってくれる仏ということで、人々の祈願は絶えることがない。

そのためか、地蔵の縁日は毎月二十四日だが、盆の二十四日に行う地蔵供養は、地蔵盆と呼んでいまも子どもたちの手で行われてきている。

お地蔵様と呼んで親しみの深い地蔵信仰は、宗教を離れて強い民間信仰として生きている。頭を丸めた姿の地蔵の童顔の姿は、五人囃子の童児形を考える際、見逃すことが出来ない。

五人囃子の童児形については、幼児の無心の姿を最先に考えてみた。その無心とは清浄ということばに置き換えられようか。五人のお囃子には幼児の清らかさが望まれたのである。清浄こそ、人の霊魂の姿ということが出来る。

(つづく)

「にんぎょう日本」1993年1月号掲載

1993-01zu

雛人形 五人囃子について

雛人形 五人囃子について

1992-12zu
成長への儀礼

 生旺墓の理によってみると、誕生から成人までの期間は、生まれる、つまり“生”の部分に当たる。肉体の成長と共に生霊の増殖する養育期であり、受胎あってから帯祝・産褥見舞・命名式・宮参り・食初めなど、誕生にまつわる儀礼があり、初節供が終わると現在の七五三に相当する髪置(かみおき)、つまり髪の伸ばしはじめを祝う儀礼が行われた。男女とも、三歳の陰暦十一月十五日に菅糸でつくった白髪をかぶらせるというものだ。

 また、三歳から五歳の間に髪の先を肩までの長さで切りそろえる儀礼があり、陰暦十一月十五日碁盤の上に子供を吉方に向けて立たせ、仮親(その子にとって信頼できる他人になって貰う)が盆の上に切り落とされた子供の毛に少し鋏を入れ、川へ流す深枇ふかそぎの儀礼がなされる。

 男子は五歳から九歳までの間に、女子は七歳の十一月の吉日に帯直おびなおし(帯解き)の礼をする。小袖の付紐を取り除き、紐のない小袖に帯を結ぶ儀式をする。男子の元服は幼名をやめ、烏帽子をつけ成人の服を着、髪を結い冠をかぶる儀式で十二歳から十六歳位までの間に行われたが、江戸時代の武家は男子十七歳霜月十五日に初冠(成人式)を行って男髷に改め、幼名を成人としての実名(烏帽子名)に改めて元服がなされた。

 女子の成女式は鬢枇びんそぎといい、十四歳から十六歳までの間の六月十六日に鬢の先を切る。鬢先を切る役を鬢親といい、碁盤の上に吉方に向かって立たせて鬢を切り、生年月日と名前を書いた紙を川に流す。式が終わると鉄漿おはぐろをつけ、眉作りをして大人の姿になり、式三献を行った後、祝宴が催された。

 男女とも成人の式が済むと、肉体も生霊も完成され、活動期“旺”に入り、旺んに活躍することになる。そして男女の霊魂が結ばれる。因みに、大宝令制では男十五歳女十三歳で結婚が認められている。

 このように衣裳と共に髪形かたちは社会秩序の上で重きがおかれた。成人後の髪型,髪結の形にはいろいろな約束が込められ、身分・年齢・職業など男女ともその分類は多岐にわたった。そんな中で幼児は埒らちの外におかれ、幼児期の髪形には自由さがあったといえる。

 五人囃子の童児の髪形は、その自由さを象徴したものといえる。江戸期以前の文化の移入は中国からの影響がほとんどといえる中で、唐児からこの髪形には雛ひいな本来の可愛さ、あいくるしさを認め、幼児の髪形へのあそび心や楽しさを求めたといえる。それは往時のハイカラ指向のあらわれかも知れぬ。唐児からくり人形に伝わるようにその姿には軽業を彷彿させる身軽さを認め、無事成長のための子供らしさ、活発さを五人囃子の生やす意味に込めたものといえようか。

「にんぎょう日本」1992年12月号掲載

雛人形 対雛と五人ばやし

雛人形 対雛と五人ばやし

1992-11zu
対雛と五人囃子

 江戸時代の半ばを過ぎると、雛飾りに対雛と五人囃子、そして雛道具は飾り方の組み合わせとして絶対的という観念が強く流れるようになった。時を経て昨今、雛段飾りの簡略化された形は、対雛に三人官女を加えて五人飾り、さらに随身を飾って七人飾りといった風だが、明らかに女児の無事成長を祝う呪術としての意味合いは薄れてしまっているといえる。

 宝暦九年に江戸では京雛の移入が禁止されるが、幕府の為政の故もあって宝暦以降は江戸文化の権立期とされる。その頃が現今の座雛の完成期ということができる。 古今雛こきんびなの創作者といわれる舟月や五人囃子の作者として名匠といわれた玉山の出現がある。

 雛づくりの仕事上では特に五人囃子に想いをひかれる。そこには座雛の雛飾りの構成の本来があるからだ。宇宙を構成する五大五行(五気)のもとで五季の気候は春、夏、秋、冬、土用であり、目で見る五色は青、赤、白、黒、黄であり、天地間の生類は霊長たる人間、獣、禽、虫、魚を指す。人間には五体(頭、両手、両足)、五臓(漢方でいう肝、心、脾、肺、腎)、五指、五感(視、聴、味、嗅、触覚)、五欲(財、色、食、名誉、睡眠)があり、口で知る五味(甘、酸、辛、苦、塩辛い)、耳で聞く五音(あいうえお)もまた″五″に関わる。人間の踏む道にも仁、義、礼、智、信の五常の道があるといった往時の観念が込められて、五人囃子は必ず対雛と共に飾られた。

 五という極致は天地が創造し自然のものすべて五つで大極そのものの現れだと考えられた。関東風の雛で五人囃子の立袴(小鼓、羯鼓(かっこ))には踏み出し、踏み込みの伝統がある。十五人揃の中では歌舞伎の様式である六方を踏む態(さま)を入れて、唯一カの入った動態で運気の消長を示したといえるだろう。

 文化十年、江戸・中村座での上演に古今雛が取材されている芝居絵には、当時の歌舞伎の影響がしのばれる。古いところでは、鶏の故事がある。古事記に天照大神が天の岩屋戸に隠れた時、常世(とこよ)の長鳴き鳥として鶏が記されている。天宇受女命(あめのうずめのみこと)が空桶を踏みならし、鶏を集めて鳴かす。日本では鶏は夜明けを告げるために飼われ、最も親しみが深い一番(丑の刻二時)二番(寅の刻四時)三番鶏(卯の刻)の鳴き声で時を知る風習があった。皇祖天照大神を主祭神とする伊勢神宮の神使は、天の岩屋戸の故事により、鶏になっている。鶏には五つの徳があり、五羽を画いて吉祥とされる。夫婦と子供三人の組み合わせは家族の理想とされ、古来わが国では早朝の清浄を尊び、鶏の鳴き声は「東天紅」とされ、太陽を迎えるところから一日の家内安全も含めてその吉祥が表現される。天宇受女命は里神楽ではおかめであり、 火男(ひょっとこ、猿田毘古神)と向かい合って踊る。天宇受女命は大嘗祭や鎮魂祭に仕えて舞の始祖とされ、芸能、神楽の祖神とされている。五人囃子には五つの数に連ることどもを踏まえて、誕生したわが子のつつがない成長、幸せな結婚をという、対雛へ託された親の希いを対雛に促す力が与えられ、可愛いわが子の人生の幕開きの役も務める。対雛と五人囃子は誕生した女児の未来の幸せな家庭への予祝の形であり文字通りお囃しといえ生命の躍動、歓喜、奉納舞楽のすがたが見えかくれする。

「にんぎょう日本」1992年6月号掲載

雛人形七段飾り、十五人飾りパート4親王台について

雛人形七段飾り、十五人飾りパート4親王台について

庶民が宮中に対してのあこがれ、自分の娘の幸せに対しての思いがここにもあります。

繧繝縁(うんげんべり)、畳台のヘリの模様です。

最も格の高い畳縁で、天皇・三宮(皇后・皇太后・太皇太后)・上皇が用いました。親王や高僧、摂関や将軍などの臣下でも、「准后」(准三宮)という称号が与えられると三宮扱いになるため、繧繝縁を用いることが出来ました。また神仏像などでも繧繝縁を用いています。雛人形の親王雛は繧繝縁の厚畳に座っています。「源氏物語絵巻」でも匂宮や女三の宮が座している畳は繧繝縁で、臣下が座しているのが高麗縁と描き分けられています。

このように、三国いの花婿と一緒になれることを夢見て、お雛様の下に台座を用意した物と思われます。