【現代の名工】が継承する節句の話

雛人形 松風と高砂

雛人形 松風と高砂

 松のとれる正月、横浜能楽堂で謡曲の「高砂」が、 一堂に会した舞台と寄席の人たちによって合謡され、その模様は謡初の催しとして、恒例の年中行事への積み重ねがテレビで紹介された。近年とみに各地で盛んになりつつある「年末の第九の合唱に対峙するものにしようとする意気込みがあり、「日本の伝統文化にもっと誇りを持とう」との強い願いもあってのことだという。新しい世紀の歩みに、日本人が自国の文化を大切にする志向への魁(さきが)けとして、その試みには背中を押される思いがする。
 さかのぼると、お能のなかの「高砂」は、特に祝儀の席で多く謡われ、より多く人形の製作にも用いられてきている。それは松の葉音を神婚の語らいとする「高秒」が将軍家の徳川の姓、松平に因む松の能として、江戸城での謡初に謡われたところに由来している。諸大名を通じて各藩に普及した謡いは、長寿の夫婦「翁と姥の縁起」も手伝い、婚礼はもちろん、ほかのめでたい席に数多く謡われ、その祝意は武家社会のたしなみとして深く根を下ろし、さらに幅広い一般の階層での生活の節目に用いられる拡がりを見た。「高砂や 此の浦舟に帆を上げて 月諸共(もろ)ともに 出で汐の…」の祝い唄は、現在でも結婚披露宴や結納の席でよく謡われ、関西地方では結納の嶋台に高砂の人形が飾られる。また婚姻願望、その予祝の意が強く込められたひな祭りでは、その祝意を寿ぐとして「高砂」が浮世人形の部の筆頭として、お節句贈答には欠かすことなく用いられている。
 演能の正式な番組では高秒は初番目物に位置され、神曲とされる「翁」に対し脇能(わきのう)の呼び方もされる。その内容から神能の部に属し囃子座に大鼓が加わり、ひな祭りの五人囃子に見る、四つの楽器の並ぶ姿で上演される 高秒は室町の前期、およそ六百年の昔、二世観世太夫、申楽(さるがく)から現在の夢幻能を完成させた世阿弥(ぜあみ)元清により作られた。物語は九州の阿蘇神社の神主、友成(ともなり)が兵庫の高砂の浦を通りかかると、松の木の下を掃き清める老夫婦に出逢う。そこで高砂の松と住吉の松が相生(あいおい)の松であるいわれは、松寿千年の御代と夫婦相生を寿ぐ譬(たと)えとの語らいを聞く。そして私たちは高秒と住吉の松の精であることを明かされ、友成を住吉で待つ約束をうける。やがて友成も舟に乗り、住吉に着く。そこには月の光のもと、住吉明神が現れ、万代の御代と国土安穏を祝っての舞を舞う。物語からは航海の安全もうかがえて天下泰平、延年長寿、夫婦和合に加え、人生航路の船出に航海の無事安全の祝意も重んじられる。「ぬしや百迄 わしや九十九迄 ともに 白髪の生える迄」と唄われる俚謡(りよう)の相生白髪(ともしらが)は、高秒の姿としてよく知られる。翁の持つ熊手は財を集め、姥の箒(ほうき)は邪心を掃き清らかにする縁起として、相生白髪と熊手、箒の吉祥が喜ばれ、浮世人形としての高秒には松竹梅、鶴亀の吉祥も添える形での製作が通念となり、長く続いた。人の一生を通じると誰にも病と老いが待っている。健康でゆとりのある楽しみが持てる老境を過ごす望みは変わることのない永遠のテーマだろう。険しい海辺の地にも根を張り、風雪に耐え、その緑を絶やさぬ松の姿に昔から人々は畏敬の念を抱き、常緑の吉祥が尊ばれるなかで高砂の曲は生まれたに違いない。松の葉風を奏でる、あの葉元の二本一束の形状も、高秒の夫婦和合のいわれとして人々は見落とすまい。

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