羽子板をなぜ飾っているのかについて考えてみました何回かに分けて書いてみ・・・

羽子板をなぜ飾っているのかについて考えてみました何回かに分けて書いてみようと思います。1回目

1.羽子板を飾り期間について、暦
いつから飾るということについてですが、暦がずれていることは、ご存知の通りですが、1872年(明治5)には太陰太陽暦法からまったく別種の太陽暦への改暦が行われました。
 昔、農業国家であった、日本の陰暦の暦は、時間、方位、など庶民が、絵をイメージできるほど根付いていました。また、(よらしむべし、しらしむべからず)の世の中で、陰陽や五行思想というものが、宮中の帝王学としてあったようです。
五行思想によると一年を5つの季節に分け考えたようです。それは、春夏秋冬プラス土用という考え方です。この土用の時間を四季の後に18日間付け古い季節を消し新しい季節を生むという考え方です。
この考え方で、暦の月遅れをイメージしていただくと、立春正月から18日前なり、さらにひと月前の月というと説明がややこしいことになります。そこで、単純に元旦から18日引いた正月事始めとされている12/13日ごろ、あまり厳密に言うと暦のずれの話になり説明が難しくなりますので、12月の中旬からでよいのかと思います。
もう一つ加えると昔の暮れは、丑の月、正月は、寅の月になります。(この数え方で行くと五月は、(端午)の午の月です
丑寅は、牛の角に、寅のパンツでおなじみの鬼を表します。
別の言葉で言うと鬼門です。この鬼が出入りする時間を感覚的に何事もなく過ごさせようと鬼除けの道具として飾った物が、羽子板であると当社では、考えています。
そこで、しめ縄など春を迎える準備のために用意したものを焚きあげてしまう行事、とんど焼きを各地で行う小正月1月中旬をおしまいになる目安と説明しております。

初節句の男の子へ 端午の節句の由来は?

初節句の男の子へ 端午の節句の由来は?

初節句 男の子へ由来のお話

端午の端は、5月に限らず月の端(はじめ)の午(うま)の日の行事でした。

やがて端午の節句は、午(うま)の月である5月の午(ご)と音が同じ五の日、

つまり5月5日に定着していきました。

この端午の節句の歴史は、古代中国における季節の変わり目の厄払いからはじまり、

日本でも奈良時代以前には5月5日に薬草を摘み、災厄をはらう風習が生まれました。

特にサトイモ科の菖蒲(しょうぶ)は剣のような葉の形と強い根の香りが邪気を祓うとされ、

さらにその「菖蒲」の音が「勝負」または武を重んじる「尚武」に通じることから、

「端午の節句」は「尚武の節句」として、武士の間で年中行事となっていきました。

江戸時代になると武家では5月5日に男の子の誕生を祝い、

武士の精神的な象徴である鎧兜や幟旗などを飾って、

その子の健やかな成長と家の繁栄を祈りました。

やがて民間でもこれをまねて大きな作り物の兜や武者人形、

紙の幟旗(のぼりばた)などを飾るようになりました。

これらの飾り物は当初、天の神様の目印となるように屋外に飾っていましたが、

江戸時代中期以降、幟旗以外は小型化したものを屋内に飾るようになりました。

佐野市立南中学校にて講話

佐野市立南中学校にて講話

今年で6回目となる中学一年生各クラス1時間の講話を2月の、7日、8日と5単位行ってきました。

毎年自分の方は、同じことをお伝えしております。伝統文化や風習、暦、そういったことは、歴史であり、変わってはいけないものであり、またその上で、仕事とさせてもらっていると考えているからです。

先人たちの思いが雛飾りになっているはずだが、なぜなのか、時代の背景、底流にある約束ごと、思い説明に矛盾はないか?

間違いないか?と検証を重ねつつお話ししています。

そして、お話ししたことを、生徒さんたちに機会があったらぜひ発信してくださいとお願いしてきます。

文化がなくならないように

年末年始の営業について

年末年始の営業について

暮れ12月25日より12月30日午前中まで、お雛様全面展示のお店になります。

品ぞろえは、最も充実した一週間です。

年明けは、1月4日よりの営業となります。

ご来店お待ち申し上げます。