何代も以前の祖先たちが、生活の基準として千年以上に亙、従ってきたもともとの原理に照らし、私たちに伝えられた数々の祭りや習わしを、読み取らねばならない。
初節句を迎えた女児のために飾るお雛さまは、毎年迎える雛節供に向けて少なくとも明治の改暦以前には、二月の春分彼岸会(中日をはさんでの三日間)が済むのを待って、雛建が(三月三日の節供に向けて、雛飾りをする)があった。
ごく最近、二十四節気で一月の節中雨水が雛建の日で、二月節気啓蟄の日お雛飾りをしまうのが昔から伝わってきた雛人形解説を聞く、しかしそのような説は、伝わっていないのが事実といえる。
明治の改暦後の暦では、正月の節気雨水が二月の月中頃にあたり、旧暦二月の啓蟄は、新暦では、三月の六日頃に当たるので、現在の三月節供に準じ当てはまる故と考えられるが昔からの言い伝えにあたらぬ。
大戦後かなりの期間、各年のお節句には、新暦の節供、旧暦の節供の地域が存在した(現在も旧暦や、月遅れの地域がある)。業界でも、新旧地域向けの対応が続いたのは、記憶に新しい事である。
ただ桃の節供の季節感は、昔の呼び方で三月は辰の月といい文字通り自然界に水があふれ草木が勢いよく大地を覆う。
上巳の節供の元々といわれる、巳(蛇)が冬眠から覚め命がけの脱皮をすることで成長をする姿の神秘を昔の人達は、吾身のけがれを祓うみそぎと重ね、生命を生む力を授かってきた女児の節供に結び付け、大切に女児の祭りとして祝ったに違いないと考える。