さて、婚礼の刻限を確認できるものに、二代将軍秀忠のむすめ東福門院和子のお嫁入りの記述がある。和子は女御にょうごとして元和六年(一六二〇)入内じゅだいしているが、午うまの刻(午前十一時~午後一時)に二条城を出立する流れの中で、和子の牛車は一つ刻ときを要して、御所郁芳いうほう門より新造の女御御殿には未ひつじの刻(午後一時~三時)に到着。そこで休むこと数刻。亥い刻(午後九時~十一時)清涼殿に赴き、後水尾天皇と初めて対面し、次いで常つね御殿に渡り、三献の儀式が行われている(「女御々入内記」より)。
古法に従った事録に接すると、亥の刻限、亥の月、神無月の婚礼、さらに華燭の典という辞ことばの由来にも想いが及ぶ。
桃の節句。町雛として盛んな拡がりを見せたひな壇の最上段には雪洞が灯る。宵闇の暗がりにほんのりと浮かぶ男女一対の内裏雛。二段目に三人官女が控える姿は、ひな祭りとして日本人の誰からも愛されてきているが、実は婚礼の絵巻でもあった。初節句を迎える女の子のために、おだいり様。おひな様と称よんで飾られる男女一対の内裏雛の姿には、やがては健やかに成人して、おだいり様のような素敵な男性に出会い、文字どおり三国一の花婿に恵まれるよう、そして豊かな結婚生活がかなうようにとの願いが込められている。
つまり、初節句を迎えた女の子の形代(かあしろ、身代わり)とされるおひな様にとって、おだいり様は″赤い糸で結ばれている″将来の夫となる男性の理想像をないまぜにしている。
(2)ひな祭りに託された願い
いずれにしても、ひな祭りでは初節句を経た女の子の身祝いとして、年毎の節句の度にひな人形に託して一年無病息災であることへの願いが込められてきた。
人はよく、赤ちゃんには親を選んで生まれてくることができないというが、女の子が胎内で出遭った祖先の穢けがれ、遠い原始の祖先たちの畏おそれを知らず知らずに受け継いできていることヘの修祓しゅうばつの願いも、込められていたと考えられる。
お祝いする女の子の成人に寄せた婚姻の願望が強く働いて、その予祝を重ねるなど、生命を宿す力のある女性の成長に対する両親、祖父母の思いはひな祭りに多くの願いを寄せている。
もともとひな祭りは上巳の節句に包含される。五節句の上巳の節句は中国から流入したものだが、我が国では古くから巳の日の祓の思想が原点にあって、ひな祭りの祝いがなされてきた。
巳とは蛇であり、冬眠から覚め、自然界に水が溢れてくる季節、蛇は自身の身体を脱皮して成長する。
祖先たちはその姿の神秘を身殺みそぎとして感じ、災厄や穢れを我が身からそぎ落として、無病息災や清浄な心身を祈願してきた。ひな祭りの祝いが年中行事として行われるのも、蛇の脱皮擬もどきといえよう。
(次号に続く)
「にんぎょう日本」2000年2月号掲載
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