科学万能の現代生活にあっても、多くの人々が年末年始の時期には、日記と共に運命暦を買い求める。運命暦は、あるいは毎年の定着したベストセラーといえるのかもしれない。そしてそれは、人々の誰もが心のどこかで明日への不安と闘いながら毎日の生活を続けている証といえるだろう。気やすめといいながらも、何かを心のより処にしたいのが人情というもので、そこには昔も今もない。深い深い心の底では、自然界の大きな営みの力を知らず知らずのうちに怖れているのかも知れない。
魔方陣は、その大自然の目に見えぬ営み、運行作用を数字におきかえて具体的にし、その原理を示すもので、その数理の法則は四千年以上の時を経て科学万能の時代の今日に至っても万古不易、宇宙の鉄則とされている。
魔方陣を構成する一から九までの数字はそれぞれの性質をもつ生命エネルギーと解釈できるが、一つ一つが独立して存在するのではなく、便宜的に九つの種類に分けただけのことで、一体となって、限りなく、循環作用し、自然界を支配することになる。私達のすぐ身の周りが電波や磁界作用、肉眼で見えぬ限りない色々な素粒子のとびかう空間であることを感じつつ、魔方陣の数字の各々の循環の順序と原子核を中心に廻転する電子の軌跡とが同じ様子だと聞かされると驚く。そして目には見えぬその作用を何となく理解することができるだろう。
洛書は魔方陣が揚子江の治水の際に現れた神亀の甲羅にこの図が発見されたという起源に因んでつけられた名称といわれている。広大な国土を治めるために天文治水に心を砕いていた古代中国の話だ。
魔方陣の縦、横、斜の各数の和が十五になるという摩訶不思議が雛飾りの様式にとり入れられたのは、江戸時代の後期と考えられる。江戸中期の奢多禁令を経て、座雛の形が小型を余儀なくされると、その見栄のために雛の数がふえ、調度も多種多彩となり、その飾り付けは拡がりを見せ、雛壇の定着、雛段数の増加があった事は容易に考えられる。明治の改暦以前の社会では、紀年月日は勿論、方角や時刻等々に干支があてられ、生活の隅々にまで及んでいた。また、徳川三代に仕え、その影響頗るだった天海僧上の天源術を始め、江戸幕府の為政にまつわる中国哲学思想の波及は、一般階層の魔方陣の魔訂不思議への理解が容易な土壌だったといえるだろう。
「にんぎょう日本」1992年3月号掲載
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