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羽子板をなぜ飾っているのかについて考えてみました何回かに分けて書いてみようと思います。4回目

4.羽子板の起源とは
その1左義長のいわれ
羽子板と呼ばれ歌舞伎役者や美人画の押し絵で作るようになる前は、左義長板といって、とんど焼の儀式の絵を描いた板でした。
諸説あるようですが、文献も借りて、自分なりの解釈を数回に分けて書いてみたいと思います。
昔、仏教と道教のどちらがとうといかという議論の結末をつけるために、中国の明帝が、仏教と道教の儒者たちを、白馬寺の南門に集め、道教の教典を右の壇の上に積み重ね、仏教の経巻を左の壇の上に積み重ね、栴檀香に火をつけて、右と左に、火を移したところ、道教の経典は、めらめらと燃えあがった。そこで道教の導師たちは、天に昇り、火に水を含ます術をおこなって、防ごうとしたが、経典はのこらず燃えてしまった。
ところが仏教の経巻は、ふしぎにも五色の光くもがたなびいて、栴檀香の火をはねかえし、さらに教巻をまわりまわって、ふたのようになり、少しもこげなかった。
このありさまに、天子は、ひだりのぎまされりー「左義長」といって、感心され、道教の道士ら千百五十一人が、一度に出家して仏教の僧侶となったということで、御所のお庭の三毬杖では、
「とうとや 左義長 法成就の池にこそ」 とうたいはやすのだということです。
まずは、いわれの原点は、このあたりなのかと考えます。
経典を燃やす三角の炎の意味は、悪いものは、消し去る聖火なのだと思います。

(藤沢衛彦氏図説日本民俗学全集より引用させていただきました。)

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