幼い子がしゃがんで遊んでいる。声をかけても振り向こうともしない。顔が汚れ、着ているものが泥んこになっているのに頓着がない。時間の経つことなど毛頭気にならない。こんなあどけない姿こそ三昧の境地なのだという。
昔から中国では十才を幼、二十才を弱、二十才を壮、四十才を強、五十才を艾がい、それ以上は十才ごとに耆き、耄もう、たい背たいはい(たいという字は魚へんに台)というふうに呼んでいる。また七才は悼とう、五才は童どう、三才は孩がいということで各年代の呼称にそれぞれ想いがあった。そして悼と耄は、罪があっても刑を科すことがない、つまり幼児と老人は社会の外において見守ったという。
いずれにしても幼児のあどけない無心のしぐさ、童心といえばその純真さ故に誰も憎めないし、むしろ尊いと思う。
親王対雛を主役と考え、雛十五人揃の構成の中、組雛として欠かすことのできなかった五人囃子だけは、どうして童顔が用意されたのか、単に雛まつりの希い本願を、可愛い我が子の形代かたしろでもある対雛に穢けがれない幼な子の姿でうたい上げるためのものだったのだろうか。男女対雛を最上段に、三人官女がすぐ下の段、三段目に五人囃子、四段目は随身、五段目に供仕丁で十五人の雛は陳列されるが、五人囃子の組雛だけは唐子からこの童顔が用いられ、他の雛たちには成人した顔立ち、髪形の頭(しょう顔)が用いられてきた。
五人の童頭は向かって左からどんずりに結ひ上げの鬢びん、大きく口を結んだ太鼓、髪がワンカ、やっこ鬢びんはり、口開きの形が大鼓おおかわ、どんずりに前下げ髪、長い下げ結びの鬢びん、ちょぼ口が中央に位置して小鼓つづみ、どんずりに長く下げ結びの鬢びん吹きよせ唇の笛、カムロの髪型で口開きが謡うたい。こうした一連の形でより広く使用され、昭和三十年頃までその形式は続いた。そしてその姿は当時はごく当然に扱われた。
またその当時までは、親王、官女、五人囃子、随身、仕丁はそれぞれ組雛として桐箱や前硝子の飾り箱などに入れて販売され、御殿飾りや雛段飾りが十五人揃になるのを前提に自由で縦横な販売がなされた。
やがて店頭での販売に、十五人揃の雛段飾りと飾り段用九品の雛具でのセット化販売の規格が拡がると、業界の隆盛期を迎えるが、従来の生産では間に合わず、他聞にもれず、五人囃子雛頭もワンカにやっこ鬢びんはり、つまり大鼓おおかわの型だけで五人一律の略式形がとられるようになった。十五人それぞれの頭を用いた本来の伝統は少し消え失せるかのような流れで現在に至っている(結髪・面相については頭師としても長老である鈴木柳蔵、石川潤平両氏にその確認を仰いだ)。
(つづく)
「にんぎょう日本」1992年11月号掲載
投稿日: カテゴリー ひなつく里花伝, お雛人形の用語について知る, 雛人形の意味、由来