【現代の名工】が伝える節句のお話 現代の名工/Master Craftsman

現代の名工とは、幅広い産業分野の中から、きわめてすぐれた技能を持ち、
その産業を通して社会の発展に貢献した人を表彰するものです。
伝統工芸の分野で受賞する人は少なく、
当工房では代表の吉田 宏(吉田吉貞)が平成13年に認定表彰を受け、
現代の名工の一人となっております。

吉田 宏 (吉貞)Yoshida Hiroshi ( Yoshitei )

プロフィール

雛人形の製作に携わり、幾多の考案、改善によって作るその人形は品格
と上品な雰囲気を持っており、特に人形の三人官女の緋袴に関しての着せ付け等の技能にれている。

平成13年に現代の名工の一人として認定表彰を受け、平成16年には佐野市指定無形文化財認定される。

現在も職人として人形製作を手がける中、次世代に節句の意味を伝えるために研究・指導・講演などを行っている。

現代の名工が制作している

経歴

厚生労働大臣 卓越技能表章
栃木県知事 卓越技能表賞
栃木県能力開発協会 卓越技能表賞
(社)日本ひな人形協会 節句人形工芸士認定
佐野市教育委員会 佐野市指定無形文化財

平成13年11月22日
平成10年11月17日
平成8年11月29日
昭和60年8月29日
平成16年12月22日

完成した雛人形

人形の三人官女の緋袴

人形に着せ付けをしている

【現代の名工】が伝える節句の記事一覧

世代三代と三人仕丁 -七段飾りを読み解く12-

世代三代と三人仕丁 -七段飾りを読み解く12-

ひな壇の五段目に並ぶのは、3人の仕丁です。仕丁とは貴族などの家で炊事や掃除などの雑役のことです。

向かって左から、口開きの怒り(中年)、泣きべそ(若い男)、箒を持った口開きの笑い(年寄り)と並びます。

 

この世代3代というのは面白いもので、人間をよく表しています。

例えば大工仕事でいえば、年寄りはお金も足りて仕事も足りて、物事を聴く力があり、教える力がある棟梁格なのでにこにこ笑っている。真ん中は、体は成人しても仕事はまだ半人前の泣きべその若者。そして怒っているのは仕事もできて一生懸命シャカリキになって働いている中堅。

三人仕丁はこの等に、時間の流れをもっている組雛なのです。

 

並び方は、中左右と言って、真ん中に一番偉い人、左に次の位の人、右に一番下の人という神道の並び方をしています。やはり向かって見ると左右は逆なので、若者、年寄り、中年の順に偉いことになります。

若輩者が一番偉いというのは不思議かもしれませんが、若いというのは未来に対する力を一番もっている存在ですので、若い方が尊いとしたんですね。

守護像としての随身(ずいじん) -七段飾りを読み解く11-

守護像としての随身(ずいじん) -七段飾りを読み解く11-

ひな壇の4段目、左右の端には随身が控えています。

随身というのは、高官の警護などをした武人のことです。左上位なので左にいる方が位が高く、向かって右の年配の姿が左大臣で、向かって左の若い姿が右大臣です。

向かってみると左右が逆なのでわかりづらいかもしれません。

 

武人である彼らは、狛犬や神社の門などにいる阿吽(あうん)像、随身像と同じような役割を持っています。

これらの一対の像をよく見てみると、一方が口開き、一方が口結びをしています。また、阿吽像は、口を開いている方の手は開き、結んでいる方の手は同じくぎゅっと握られています。

彼らは背後にいるもの(ひな壇であればおひな様とおだいり様)を守る守護像なので、陰陽の理を元にした結界を張っているのです。

 

以前にもお話ししましたが、ひな壇は向かって右が陽、左が隠として作られています。

随身もこれに従い、向かって右の左大臣は陽なので口開き、右大臣は隠なので口結びになっています。

今の五人囃子が同じ髪型ばかりの理由 -七段飾りを読み解く10-

今の五人囃子が同じ髪型ばかりの理由 -七段飾りを読み解く10-

組雛ごとに売られる方法は形を変え、やがて店頭では十五人揃の雛段飾りと、飾り段用九品の雛具でセット販売される規格が広がり、雛人形の業界は隆盛期を迎えました。

しかし、売れすぎると今度は従来の生産では間に合わなくなったのです。他聞にもれず、五人囃子の雛頭はみんな、大鼓の型が使われるようになりました。つまり、五人一律の簡略形がとられるようになったのです。

十五人それぞれの頭を用いた本来の伝統は、少し消え失せるかのような流れで現在に至っています。

 

私どもの作る雛人形は、今も五人囃子の顔は一つずつ変えています。なぜなら、五人の髪型には子供の成長への願いが込められているからです。

 

五人囃子がどうして童子の姿をしているのかについては、また別の回でお話ししたいと思います。

五人囃子の髪型 -七段飾りを読み解く9-

五人囃子の髪型 -七段飾りを読み解く9-

少し専門的ですが、五人囃子の童頭の形を向かって左から紹介します。

 

・大きく口を結んだ太鼓:どんずりに結び上げの鬢(びん)、髪がワンカ、やっこ鬢はり

・口開きの形の大鼓(おおかわ):どんずりに前下げの髪、長い下げ結びの鬢

・ちょぼ口の小鼓、どんずりに長く下げ結びの鬢

・吹きよせ唇の笛:カムロの髪型

・口開きの謡

(紹介した結髪・面相については、頭師としても長老である鈴木柳蔵、石川潤平氏にその確認を仰ぎました)

 

こうした一連の五人囃子の規格は広く使用され、昭和30年頃までその形式は続きました。

その姿は当時はごく当然のものとして扱われていました。

 

またその当時までは、親王、官女、五人囃子、随身、仕丁はそれぞれ組雛として桐箱や前硝子の飾り箱などに入れて販売されていました。

これは御殿飾りや雛段飾りが十五人揃えになるのを前提にして、好きなようにひな壇の十五人を集められるというもので、自由で縦横な販売がされていました。

ですが現在では、五人囃子の髪型はみな同じというものが広く販売されています。

五人囃子だけが子どもの顔 -七段飾りを読み解く8-

五人囃子だけが子どもの顔 -七段飾りを読み解く8-

さて、どうして五人囃子は童顔なのでしょうか。

親王対雛(おひな様とおだいり様)を主役とした七段飾りの雛十五人揃。その中でも五人囃子の組雛(幾つかで1まとまりの雛)は、ひな祭りを音楽で囃す、欠かせない存在です。

赤ちゃんの形代(かたしろ)でもあるおひな様・おだいり様のために、健康で良い一生を送れますようにと、穢れない幼な子の姿で五人囃子にうたい上げてほしい。そんな意味をこめたのでしょうか。

 

ひな壇には男女対雛を最上段に、三人官女がすぐ下の段、三段目に五人囃子、四段目は随身、五段目に供仕丁で十五人の雛が陳列されます。

その中で五人囃子の組雛だけは、唐子(からこ:中国風の服装や髪型をした子ども)の童顔が用いられ、他の雛たちには成人した顔立ちと髪型の頭(しょう顏)が用いられてきたのです。

幼児の無心の尊さと五人囃子 -七段飾りを読み解く7-

幼児の無心の尊さと五人囃子 -七段飾りを読み解く7-

幼い子のあどけない、時間も忘れて遊ぶしぐさ。声をかけても振り向かない、汚れても気にしない無心さ。

そんな三昧の境地とも呼ぶべき童心の純粋さは、誰も憎めず、むしろ尊いものだと思います。

雛人形の五人囃子は、こういった無垢な子どもの顔で作られることになっています。

 

昔から中国では、十才を幼、二十才を弱、三十才を壮、四十才を強、五十才を艾(がい)、それ以上は十才ごとに耆(き)、耄(もう)、たい背(たいはい:「たい」の字は魚へんに台と書く)というふうに呼んでいます。

また七才は悼(とう)、五才は童(どう)、三才は孩(がい)ということで、各年代に呼称をつけることで、その歳の人のあってほしい姿を表現しました。

悼と耄、つまり幼児と老人は罪があっても刑を科されず、社会のきまりの外において見守ったといいます。

五人囃子の子どもの姿には、そんな自由さも込められているのでしょう。

三々九度の盃で魂がつながる -七段飾りを読み解く6-

三々九度の盃で魂がつながる -七段飾りを読み解く6-

今でも神道式の婚礼の儀では三々九度の盃を飲みますが、夫婦と両家の親族が同じ盃で酒を交わすことにより、異なる親族が魂がつながりを持つとされています。

宴席を同じ盃が一巡すると一献(いっこん)となり、廻る盃で一回(ひと口)飲むことを一度といいます。一献の盃を三度に飲んで三献を重ねるので、三々九度の盃となるのです。

古代中国では、祝宴の席に人を迎える最高の礼が、九献とされていました。この文化が日本に渡り、いつのころから九献が三々九度の盃に転じたのかどうかは定かではありません。

日本創生神話と酒器の種類 -七段飾りを読み解く5-

日本創生神話と酒器の種類 -七段飾りを読み解く5-

日本創生神話にある男女の神にまつわるお話しで、どのように二人が出会い、命が生まれたのかというお話しをご存知でしょうか。

天の御柱の周りを男神が左廻り、女神が右廻りをして出会い、美斗(みと)のまぐあいがあり日本が誕生したという日本創世の神話。これに倣い、ひな壇では左の瓶子(へいし:お酒を入れる壺型の焼き物)に雄蝶、右の瓶子に雌蝶の蝶花形(ちょうはながた)を飾ります。

 

この男女の二神に供えられた神酒は、まず雌蝶の瓶子から提子(ひさげ:注ぎ口のある金属製の器)に移し、次に雄蝶の瓶子の神酒をその上に注ぎます。さらに提子の神酒は、長柄(ながえ)の銚子(ちょうし:酒を移し入れる時に使う器)に移され、盃に注ぎます。神社で行われる神道式の結婚式では、今も見かけることの多い手順だと思います。

酒器

提子(ひさげ)には雌蝶、銚子(ちょうし)には雄喋の蝶花形が飾り付けられますが、この二つと左右の瓶子(へいし)一対を合わせて四丁(しちょう)になるのを忌み嫌い、菱飾りがつく形式もあります。今もそうですが、昔も四の字は「死」を連想させるため避けられたのです。

 

このように男女の二神にまつわる神酒の器は、二神が出会うことで命が生まれたという神話にあやかったものなのです。つまり婚礼の儀は、次の世代の誕生を祈ることでもあるのです。

三人官女たちは婚礼の儀の進行役 -七段飾りを読み解く4-

三人官女たちは婚礼の儀の進行役 -七段飾りを読み解く4-

本来、両側の官女は神に仕える巫女の姿をしています。未婚の女性のため眉があり、左の官女は口を開き、右の官女は口を結んでいます。

三人官女

中央の官女は待上臈(まちじょうろう)と呼ばれる年功を積んだ女性です。彼女は袿(うちき)を着て眉がなく、口を開けて祈っています。この女性は婚礼の司会をして祝詞(のりと)の口上を述べ、式三献(しきさんこん)の儀を進行させます。

では、三人官女たちが執り行う古来の結婚式の様子を、ひな壇を通してもう少し詳しく見ていきましょう。

陰陽で見る方位と男女の左右 -七段飾りを読み解く3-

陰陽で見る方位と男女の左右 -七段飾りを読み解く3-

さて、人の世のさまざまな事柄が写し出されていると考えられる、雛の世界。その人形と道具の位置も、陰陽にそって考え抜かれています。

ひな壇の後ろを、北半球で動くことのない北極星が位置する場所、つまり北とすると、向かって右の陽が昇る東が陽、左の沈む西が陰と考えられます。こうして、ひな壇の向かって右が陽、左が陰という流れが見えてきます。

自然界の摂理に考えると、男は陽、女は陰という見方ができます。男雛は向かって右、女雛は向かって左に座るという、自然な位置が解ります。

 

陰陽

 

因みに、何人も絶対に曲げることを赦さない仏像の儀軌によると、その左手は慈念手、右手は悲念手とも呼ばれ、仏教の原点の慈悲の心を意味します。

左手(向かって右側)の慈は、如来の心の父親の愛であり、右手(向かって左側)の悲は普く包む観音菩薩の心であり、母の愛を表すとされます。

 

対雛の男女の位置について、右か左かどちらが本当なのか問答は多いですが、数年来私はその答えを迷わないことに決めています。

原点にある陰陽思想 -七段飾りを読み解く2-

原点にある陰陽思想 -七段飾りを読み解く2-

江戸時代、時も方角も、人々は十二支を当てて考えていました。十二支によるものの考え方は、陰陽思想からきています。

古代の中国哲学の原理である陰陽思想は、どこかかび臭く古い考えと思われるかもしれません。ですが、実は天文観察から生まれたもので、意外に科学的で奥深く究められたものです。

自然界の摂理を文字に置き換えているため、現代の私たちが学んでも新鮮に感じるものが多いことに驚きます。

 

陰陽方位

 

色々な自然界の摂理をとらえる陰陽思想では、東西南北の方角方位のこともよく考えています。

方位は十二支で表され、子の北に始まり、丑寅が北東、卯が東、辰巳が南東、南が午、南西が未申、西が酉、北西は戌亥となります。

方位と時刻月次が重なる丑寅は、鬼門としてよく耳にすると思いますが、これについては別の機会にお話ししたいと思います。

男雛と女雛の右左 -七段飾りを読み解く1-

男雛と女雛の右左 -七段飾りを読み解く1-

「おひな様とおだいり様はどちらが左か右か」というのは、様々に説があります。

 

現代では、おだいり様を明治の改暦以前に従って向かって右にする場合と、西洋の王室の並び方に従って左にする場合とに分かれています。

 

お雛様お内裏様の左右

 

私は原点に立ち返って左右を決めることにしています。いつの時代に合わせるかではなく、どうして江戸時代より昔は左におだいり様を並べていたのか?という理由を考えたのです。

 

ここで大切にしたいのは、明治の改暦で太陽暦が入ってくる以前、それまでの1000年以上の時間、祖先たちの毎日には、暦はもちろんあらゆる面で、十二支の支配を受けた生活がありました。雛の文化はこの1000年の歴史の中で育ってきました。

知識人が雛人形に込めた陰陽の世界 -雛人形が今の形になるまでの歴史5-

知識人が雛人形に込めた陰陽の世界 -雛人形が今の形になるまでの歴史5-

陰陽については前の記事でも少しお話ししましたが、これは世の中のあらゆる物や事象をプラスとマイナスに分けて考えるというのものでした。

江戸時代は陰陽の考えが深く根付いていたため、雛人形の形に関しても知識人たちが試行錯誤して、陰陽の恩恵にあずかるよう多くの工夫を凝らしました。

そこで、どの顔をどの人形にさすべきかの答えは、この陰陽にあるのではないかと考えました。

 

陰陽春秋桜橘

 

まず注目したのは陰陽の桜橘の並びです。

ひな壇では向かって右に桜、左に橘を並べます。桜は春、橘はみかんで秋を意味します。ひな壇に春秋があるということは、季節の陰陽がこのひな壇には込められていると言えます。

 

ということは、お人形の顔の並びも陰陽に従ってさせば、自然とあるべき形が見えてきます。

そこで決めたのが口開きと口結びです。口を開くのは陽、口を結ぶのは陰というのは自然とイメージできると思います。

桜がある右側のお人形には口開きの顔をさし、橘がある左側には口結びの顔をさすと決めました。

もともとはお内裏様の顔も口が開いていて、お雛様が口を結んでいたのではないかと思っています。

 

赤ちゃん口元

 

意味を知れば雛づくりのあるべき姿がわかってくる

今お話ししたことが正しいのか間違っているのかは、はっきりした文献が残っていないためわかりません。

ですが、陰陽思想のように昔の考え方を紐解いていくと、お雛様の自然の流れに従った姿が見えてくるんじゃないかと思います。

はっきりとした決まりが文献で残っていない業界だからこそ、本質に立ち返って雛人形に向き合っていきたいものです。

胴がら師が決める顔の並び -雛人形が今の形になるまでの歴史4-

胴がら師が決める顔の並び -雛人形が今の形になるまでの歴史4-

さて、人形は胴だけ作って必ず後から首をさしますと話しました。私は胴がら師ですので、襟の部分は顔をさす串の状態を想定して作っていきます。

この胴がらに顔をさす時、どの胴にどの顔をさすべきかというのは、とても重要な問題です。なぜなら「この顔をこの胴がらにさしなさい」という文献は残っていないので、そこは胴がら師に一任されるのです。

職人

 

そこで私は、どういうお顔の並びが一番雛人形の本質に沿っているのか、様々な資料を調べて決めました。

江戸時代に決まった人形の大きさ -雛人形が今の形になるまでの歴史3-

江戸時代に決まった人形の大きさ -雛人形が今の形になるまでの歴史3-

ここで、ひな壇の形の歴史についても見ていきましょう。以前、七段飾りは江戸時代に完成されたという話をしました。

江戸時代、武家の間では今よりもずっと大きいお雛様が贈られていました。最初は等身大くらいの大きな人形が臣下から奉納され、ひな祭りのお祝いをしていたのです。それが段々と広まってくると、競うようにお道具も金ぴかになり、ますます派手になっていきました。

そこに、将軍徳川吉宗が奢侈禁止令(しゃしきんしれい)を出し、「贅沢をしてはいけない」と命じました。その後人形は急に小さくなっていき、やがてその大きさは八寸という高さで止められました。

 

江戸時代

 

ところで私どもの業界では、顔を抜いた状態で八寸を図ります。雛人形は胴がらと首を別々に作って、最後に首をさすのですが、その首をさす前の状態で、サイズを測ります。

ところが江戸の役人はそんなことを知らずに頭から下まで測ったため、「八寸以上あるじゃないか」と言ってきたそうです。作り手の常識を知らなかったんですね。

今でも八寸といえば、顔を抜いた状態の肩から下までで八寸と言います。

その後、大きさをもとにしたお人形の呼び方がいろいろ生まれました。柳三寸とかこげし、けし。10番、9番と番も入ってきて、5番となると結構大きいです。

巳(蛇)の脱皮と、毎年の成長を重ねて -雛人形が今の形になるまでの歴史・・・

巳(蛇)の脱皮と、毎年の成長を重ねて -雛人形が今の形になるまでの歴史2-

ご存知の方が多いと思いますが、巳は蛇の意味をもちます。冬眠から覚め、自然界に水が溢れてくる季節、蛇は自身の身体を脱皮して成長します。

ヘビ

 

祖先たちはその蛇の神秘的な姿を身殺ぎ(みそぎ)として感じとったのでしょう。災厄や穢れを我が身からそぎ落として、無病息災や清浄な心身を祈願する象徴として、巳を神聖視してきました。

ひな祭りの祝いが年中行事として繰り返し行われるのも、蛇の毎年の脱皮を模しているといえるでしょう。

ひな祭りの原点「上巳の節句」 -雛人形が今の形になるまでの歴史1-

ひな祭りの原点「上巳の節句」 -雛人形が今の形になるまでの歴史1-

ひな祭りの歴史をたどると、中国から流入した上巳の節句(じょうみのせっく)に行き着きます。

少し難しい話になりますが、我が国では古くから巳の日の祓(みのひのはらえ)の思想を原点にして、ひな祭りの祝いが行われてきました。

昔は年以外にも日付に十二支を当てはめて考えていたので、巳の日が12日に一回巡ってきました。

干支

 

「上巳の節句」は月の初めの巳の日に行われる、心身の穢れを祓うための行事でした。

この節句がひな祭りの原点にあると言われており、もともとは女児だけでなく、男児の節句でもあったと思われます。